創刊二〇周年を迎えて

新しい社会の創造をめざしてさらに飛躍を

 

  労働運動研究所は、一九六九年九月に創設されましたので、今年、二〇周年を迎えます。そして同年十一月に創刊された月刊誌『労働運動研究』もその後一号の休刊もなく発行され、二四一号を数えるに至りました。ここに二〇年の長きにわたって研究所の活動を物心両面で支えて頂いた皆様に衷心より厚く感謝致します。

 

研究所の創立

 

  労働運動研究所が創設された一九六九年は、大学闘争、ベトナム反戦闘争、七〇年沖縄・安保闘争などをめぐって日本の変革を目指す運動が一つのピークを迎えようとしている年でした。それらの進路をめぐって、激しい論争や対立があり、研究所の創立もそれらの論争と深くかかわっておりました。

  この論争の背景には、高度成長期の目覚ましい科学技術革命の発展に伴う急激な産業構造の転換の下で、労働者階級や勤労諸階層の構成や意識が急速に変化し、労働運動内部の矛盾が激しくなる中で、当面する運動の諸困難を克服するために新しい潮流をいかにして形成するかという問題がありました。また中ソ対立やチェコ事件などを契機に国際労働運動の内部に深刻な分裂が生じ、労働者階級の中に大きな思想的・政治的混乱をもたらしている現状の下で、国際労働運動の経験を総括し、創造的な科学的社会主義の立場から新しい世界の変革と発展の方向をいかに追及するのかという問題もありました。私たちは、これらの諸問題に全力を挙げて取り組んでみようと決意しました。

 

私たちの目的と課題

 

  私たちは研究所の発足に当って、次のような目的と課題を明らかにしました。

  第一は、独占の合理化攻勢と対決して、職場でたたかっている労働者の経験を集中し、それを理論化して、たたかいの前進に資することです。

  第二は、第一の課題を果すためにも、狭い視野におちいることなく、今日の世界の動向と日本の現状分析を、専門研究者の協力を求めて進めることです。

  第三は、世界と日本の労働運動の歴史的総括を進め、その教訓をあきらかにすることです。

  第四は、以上の研究を通して、わが国労働者階級が、全世界の反帝勢力と連帯し、農民はじめ反独占勢力と同盟し、統一して、自からの解放をたたかいとる事業に奉仕することです。

  第五は、これらの共同研究のための研究会活動、ならびにその成果を発表し、討論を発展させるために、雑誌『労働運動研究』を発行することです。

  第六は、労働運動活動家の結集と労働者教育活動です。

  それから二〇年、私たちは微力ですが、国際、国内の労働運動の提起する様々な理論的・政治的諸問題の解明に努力してきました。その過程で時には一九八一年のポーランドの戒厳令をめぐる論争のように激しい論争や意見の対立も生れました。現在も労働戦線統一や天皇制の問題をめぐって論争が展開されています。しかし、私たちはいかなる場合でも、お互いに対等な立場で論争し、決して異なる意見を排除したり、論争を抑えたりしないで参りましたことは、私たちのいささかの誇りであります。

  一九八六年三月にはこうした研究所の活動をさらに強化するため、創立以来の人々のほかに、新たな若いメンバーが中心に加わり、研究所をもっと大衆化し、国際・国内労働運動の理論的・実践的要請に応えられるよう大幅な改革が行なわれましたQこれにより研究所は第二期とも云うべき段階を迎え今日に至っております。

 

新たな再生めざし

 

  わが国の労働運動は、いま重大な危機に直面しています。

  革新勢力の分裂による労働運動の分裂と右傾化と混迷は、労働者が戦後の長く苦しい闘いのなかでかちとった諸権利の剥奪、労働者の生活水準の停滞を引き起こしています。さらに独占資本が強行しているMEOA合理化は、労働強化、長時間労働、交替制労働、差別雇用などを拡大し、労働者の健康と母性の破壊、家庭の崩壊をもたらしています。

  しかも、技術革新による産業構造と労働者階級構成の変化は、階級内部の多様化をもたらし、労働者の組織化と労働運動の発展を阻害しています。さらに帝国主義間競争の激化に伴う独占の多国籍企業化も、この困難に一層拍車をかけています。

  わが国の労働運動の直面する諸困難は、欧米資本主義諸国にも共通のものであります。しかし、いまやアメリカ、ECとならんで、帝国主義間競争の三大センターの一つとなったわが国の労働条件の劣悪さは、資本主義諸国の失業を増大させ、労働条件を切り下げる要因にさえなっています。

それだけに、労働運動の階級的再生のための闘いは、ひとりわが国の労働者の生活と権利を守るだけでなく、全世界の労働者階級の闘いと連帯する意味をになっています。

  現在の労働運動が、独占資本の長期にわたる計画的な攻撃によって生じたものであることを考えると、その階級的再生が容易な事業でないことはいうまでもありません。しかしたとえ困難であっても、この事業を全力を挙げて成功させなければなりません。

  私たち労働運動研究所は、 九六九年九月発足以来、さまざまな試行錯誤を重ねながらも、階級的立場に立ち、わが国労働運動の困難を打開する新しい潮流を形成する努力をしてきました。二四〇号に及ぶ『労働運動研究』の発行は、その成果のひとつであります。しかし、私たちの活動が情勢の要求に応えたかというならば、きわめて不充分というほかありません。

  新たに参加した人達の積極的な努力が少しずつ実りはじめ、そのことは『労働運動研究』の紙面にも反映し、これまでにない新たな筆者の登場と問題提起が行われ、雑誌の発行部数も最近になって大きく増加の方向を辿っています。このことは、労働運動の混迷と労働者意識の低下という今日的な状況下で、この種の雑誌の発行が困難になっている現在、その責任の重さをひしひしと感じています。

  さらに最近では、「グラムシ・国際シンポジウム」や「フオーラム・新しい社会の創造をめざして」などにも誌面協力し、多くの方からあたたかい励ましの言葉をいただいております。私たち研究所の活動や雑誌の発行が、今日の総評解体と労戦再編という歴史的にも新たな段階、それも労働運動の階級的前進にとって極めて困難な局面にあって、多くの活動家に少しでも寄与することが出来れば幸いだと思っています。

  私たちは労働運動研究所創立二〇周年を記念し、シンポジゥムを企画し、今日の新たな段階での社会主義についての討議を行うとともに、研究所を支え励ましていただいた方々と親交をあたためるためのレセプションを開催するため準備を進めているところです。

  そして、この二〇周年を期に、これまでにも増して皆さんのご支持とご協力を得て、研究所をさらに充実させ、『労働運動研究』の紙面の改善に努力し、困難な状況を切り拓くため各戦線で活動されている皆さんの要求に応えるため努力する決意ですので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。

 

一九八九年十一月

労働運動研究所


人間解放のマルクス主義を求めて

 労動運動研究 1989年11月 No.241号掲載

20年間の社会主義論争を問い直す

「労働運動研究」20年の社会主義論争を振り返り、論争に欠けていたものは何か。「マルクス・レーニン主義」の克服、歴史の見直し、社会主義の今後の課題を討論する。

植村邦

松江澄

遊上孝一

山本正美

柴山健太郎(発言順)

 

柴山 労働運動研究所は、一九六九年九月三日に創立総会を行ない、また同じ年の十一月に雑誌『労働運動研究』を創刊したので、今年で二〇周年になる。そこで『労働運動研究』十一月記念号の中で『労研』二〇年をふりかえり、そこで行われた社会主義をめぐる論争を再検討する座談会を行うことにしたい。

『労研』二〇年のなかで大きな論争は二回あった。一つはポーランドの戒厳令をめぐる一九八二年二月から八三年三月にかけての論争、もう一つは八四年一月から八五年三月にかけての現存社会主義の優位性、全般的危機。フロレタリア独裁、平和移行などをめぐる論争であった。激動している国際共産主義運動や社会主義運動の現状から顧みて、その論争から何をくみとるかという視点で、話しあいたい。

今年は一九一九年三月にコミンテルンが創立されてから七〇周年で、トリアッチがヤルタ覚書を発表してから丁度二五周年でもある。『ワールド・マルキシズム・レヴュi』では、それを記念してグラムシ研究所のバッカ所長、イギリス労働党の理論家ドナルド・サッソンなどを呼んで座談会をやっており、現在のペレストロイカの「新思考」とヤルタ覚書との関連を論じているが、われわれも、歴史の見直しをふくめて論ずるようにしたい。

きょうはまず論争の過程で中心的な役割を果した植村さんに「当時のわれわれの論争に欠けていたものは何か」ということについて問題提起をしていただき、それをめぐって討論してみたい。われわれ自身の思想と理論の見直しと今後の課題を明らかにしていきたいと思う。

 

 

 

 

「マルクス・レーニン主義」の克服

植村 邦

決着がついた論争

 

イタリア共産党とソ連共産党との論争に関連して、私がとりあげた問題は、主として社会主義と民主主義の問題であり、もう一つは国際政策の問題であった。

あの頃の論文を読み直してみて思うのは、われわれはソ連の内政については余り言わなかった。経済の危機はその頃すでにかなり深刻になっていたのだが、言うことを遠慮したという面がある。ソ連に親しみをもっている西欧の学者たちも、同様であった。あの頃資本主義の停滞は甚だしく成長率はゼロパーセントということもあった。それに対してソ連は二〜三%だった。だからソ連は資本主義よりはいいのだという理屈づけをしていた。こういう時代だった。

ところが後で振り返ってみると、あの時代にソ連の中で改革を考えていた人々は、経済の状態をひどく深刻に考えていたことが、例の秘密報告(「労研」八六・一号で若干の紹介)などを見るとわかる。われわれは社会主義の優位について何となく疑問に思っていたけれども、触れたくなかったという面がある。抽象的な意味での社会主義、それと民主主義、大衆のイニシャティブ、党の問題、さらに国際問題について議論していた。本当はソ連の経済問題をあの時期に議論しなければならなかった。それは資本主義の全般的危機論とも関連があった。深刻なのはむしろソ連の方であった。ポーランドとかチェコとかの方は、経済危機の問題もかなり追求していたが。

イタリア党とソ連党の論争そのものについて言えば、社会主義と民主主義の関係、国際政策の点で、ゴルバチョフ指導部ができて、特に十九回党協議会になってきたあたりでは、もう政治的な決着がついてしまった。今は、われわれ自身に欠けていたものは何かということをいろいろ考えてみたい。

 

「マルクス・レーニン主義」の克服

 

これからやらなければならないことの第一は、いわゆる「マルクス・レーニン主義というものの克服の問題である。「マルクス・レーニン主義」という考え方、思想の体系、そういう規定を用いることを克服しなければならない。これはなんとなくそうなっており、棚上げされた感じになっている。

ゴルバチョフの演説を見ても、マルクス・レーニン主義への言及はもう非常に少ない。それ以前で言えば、フランス共産党は「マルクス・レーニン主義」の要の部分(プロレタ亘アート独裁)を放棄した。スペインのカリリョの党も同じく要の部分(レーニン主義)を放棄した。克服したと言えるのは、イタリア共産党のやり方ではないかと思う。

正しくはマルクスの理論、それにエンゲルスの理論、それからレーニンがマルクスを解釈したマルクス主義、グラムシがマルクスを解釈したマルクス主義、スターリンがマルクスを解釈したスターリン主義等というように言うべきであろう。

われわれが受け継いだ「マルクス・レーニソ主義」はレーニンがマルクスを解釈して、その解釈をまたスターリンがやったという、二重の意味に限定されたマルクスの理論になっていた。

本来のレーニンの解釈というのがあるわけで、それはレーニンのマルクス主義である。そういうわけで、マルクスの理論、エンゲルスの理論、レーニンのマルクス主義とか、それらを区別して言うべきであると思う。だからわれわれが政治的な結集を言うときにも、そこのところは相当区別して厳格にやらないといけないのではなかろうかという感じがしている。

 

科学という考え方

 

この時代の論争になったことは、みんなそのことと関係があるように思う。たとえば科学的社会主義ということがいわれるが、その科学という考え方は、非常に機械的な法則という感じで語られる。「マルクス・レーニン主義」の法則で、こういうふうになるんだという理論づけを行う。ブレジネフの時代には、そもそも現存する社会主義は「マルクス・レーニン主義」の法則に従って発展している、これは科学的法則である、そういう理解の仕方をしている。この正しい科学的理論をもっている者がソ連共産党である。だからわれわれの方が正しい、他は修正主義だということになる。

レーニンの科学という考え方は、マルクスやエンゲルスの時代及びそれ以降の科学論争の成果がひろく取り入れられているものだろうかという疑問もある。たとえばレーニンの著作の中で一番論じられていないもののうちに『唯物論と経験批判論』がある。ここにみられる科学論はいかがなものか。そのことと関連して客観性ということの理解について、レーニンのそれがマルクスの理論なのだろうか。これにはかなりの人が疑問を呈している。

科学というものの考え方、それからマルクス主義を科学的な法則と捉える捉え方が一党制とか共産党の指導性とかいう中核にあるのではないか。社会主義的意識を外から持ち込むというレーニンの有名なテーゼがあるが、こういうものとグラムシの政党を論じたものと比べてみる

と、明らかにちがいがある。それはマルクス主義というものの受けとめ方がちがっているということである。

レーニソの理論は、マルクスというよりもエンゲルスに近いのではないだろうかと思う。しかしエンゲルスの科学的社会主義理論それ自体がどうこういうことはない。

むしろエンゲルスにあってマルクスになかった科学主義というのは、もっと正当な意味で発展させられるべきであった。その科学主義というものを、非常に限定してマルクス、エンゲルスのところで止めてしまって、その後の時代の実証的な研究をなおざりにしてきたということに問題がある。エンゲルスはあの時代の自然科学の最新の研究を『反デューリンク論』の中でいろいろととりあげて議論し労働運動研究所創立総会であいさつする長谷川浩氏ているわけだが、このような思考方法と態度は伸ばさなければならなかった。そのこととマルクスの理論そのものを科学的法則だととらえて、そこから出発することとは別のことだ。

 

レーニン、グラムシの独自のマルクス主義

 

レーニンなりグラムシなりが、マルクス主義を解釈して独自のマルクス主義をもっているということは、マルクスの理論というものが非常に深遠で豊かであるということである。ある点では解明し切っておらず曖昧な点もあるように思う。多方面にわたっていて深遠な理論を一部分だけをとってきて、これをマルクスのものであるという言い方をして教条化していったものが「マルクス・レーニン主義」であった。

フランスのアルチュセールがマルクス主義からヒューマニズムという要素を全部はぎとって純粋な科学として定立しようという試みをした。これはどうも失敗した。この失敗も示していることであるが、レーニン主義というレーニンによるマルクス主義がマルクス理論の多様な側面を全面的に継承しているわけではないことを、まず確認する必要があると思う。

私が初めに「マルクス・レーニン主義」の克服と言ったのは、そのような意味である。そうすることによって、むしろレーニンの独自な理論、レーニンの時代におけるレーニンの特別な寄与がはっきりしてくる。歴史的な限界は当然あると思うが、むしろレーニンの時代のロシア世界におけるレーニンの独自な地位、理論的な意義をもっと研究すべきだと思う。政治家としての、理論家としてのレーニンの独自な寄与は、マルクスと直結させず相対化させることでよりよく理解できるのではないか。

 

歴史的経験の批判

 

第一にこれらのことを前提にして、われわれに欠けている大きなものは、歴史的経験の批判である。これがなぜできなかったかは、いま最初に述べたことがあったからである。

これはプロ独裁をめぐる論争のときにも言ったことであるが、プロ独裁の問題をマルクスやエンゲルスやレーニンの著作の中からだけで根拠づけを見つけようとするのは無理がある。マルクスがあのように言い、レーニンもあのように言った後に、何十年という経験があるわけで、その経験の中で実現された社会主義におけるプロレタリァ独裁とはどんなものであったかという分析がないと、引用だけで終ってしまう。

今まで述べたことの帰結として言えば、共産主義運動の中には、レーニンとかスターリンとかとたたかった人で、しかもみずからはマルクス主義だと思ってやった人はたくさんいたが、それぞれのマルクス主義の解釈をもって、レーニンなりスターリンなりとたたかった人も、共産主義運動の中に正当な歴史的地位を占めるべきである。

現存する社会主義は、マルクス主義の法則の具現化であるというように直線的な捉え方をしたのがスターリンである。実際はそうではなく、歴史のそれぞれの局面では常に新しい未踏の問題に直面していて、それをどのように乗り切るかに関して政治的にいくつかの選択の道があった。その中でそれぞれの人の判断、いろいろな論争・闘争があり、あるものを選んだ。その結果が社会主義の歴史である。そこには闘争に敗れた人たちの貢献というものもある。

スターリンの道が最終的には選ばれた。選ばれることになった経緯は複雑であるが、他方、「選ばれなかった道」もあった。従来はその「選ばれなかった道」というのは、たとえばトロツキーなりブハーリンなりの道だが、これは右翼なり左翼なりの偏向であるとか、人民の敵であるとかの理論づけがされた。それは初めに述べた「マルクス・レーニン主義」の法則性によってこれこれになるのだから、彼らはマルクス主義ではない、人民の敵だと理論づけるというやり方をしてきた。ここのところを改める必要がある。トロツキーなりブハーリンなりがそれぞれの局面で出した理論、提案というものも十分検討に値し、彼らの行動は歴史の中で正当な地位を占めるべきである。

 

レーニンのネップ

 

歴史的な経験の批判という中で、経済政策の水準での大きな問題として、レーニンのネップの理論がある。その前段階としての内戦に至る過程でのレーニンの選択は十分用意周到なものであったかということをロイ・メドヴェーデフは提起している。「十月革命の後に」前段階の選択によって次の段階の行動が制約されてくるわけで、そういうものとしてネップの側面を見るべきであるというのが、メドヴェーデフの考え方である。

レーニンはネップを提唱して政策にとりかかったが、実際にネップが展開されていくのは、次のブハーリンなりトロッキーの時代であった。

最初の段階はトロツキーとブハーリンの対立になって、その次がブハーリンとスターリンの対立になった。

ここのところはそれぞれの理論あるいは政治的な提案を細かく追究する必要があると思う。

従来はスターリンの選択は科学的法則の結果であると解釈していたものだから、例えば、イギリスのM・ドヅブーその頃のソ連経済史を最初に詳しく書いた人のひとりーの『ソビエト経済史』を見ると、当初トロツキーが提案していたことがいろんな歴史の過程によって、今度はスターリンが実行することになったことを、どうも合理化するような書き方になっている。その辺は昔から気になっている点である。

その後いろいろな人が研究を進めている。この前に少し紹介したモーシェ・レビン(『労研』八九年四月号「歴史のなかのゴルバチョフ現象」)とか、アメリカのSF・コーエン、イギリスのEH・カー(故人)等が詳しい研究を行っている。そういう研究は、ブレジネフの時代まではソ連のなかでは紹介されなかったが、最近はそれらの研究書が露訳され国内でも紹介されているし、そういうものへの関心も非常に高くなっている。

 

農業集団化と三四年テロ

 

次の段階はスターリン崇拝の時代である。フルシチョフはスターリンを批判するのに、「個人崇拝の時代」と言っているが、それがいつ始まったのか。フルシチョフの説によると、それは一九三四年だという。この三四年説がいまだに継承されている感がある。それは一九二九年の農業集団化のところを正当なものと評価しているからである。ゴルバチョフの『ペレストロイカ』の本を読んでみると、あれは正当なもので、正当な方針をスターリンがゆがめたという筋道になっている。そうすると二九年から三四年の間どうなったかということが重要になる。私の理解によると、二九年にあのようなことをやったために、三四年のテロになり、個人崇拝というのが出てくる。その時の選択がその後の行為を招いたという面があると私は理解している。そこのところはわれわれの研究課題だと思う。

 

マレンコフとフルシチョフ

 

次の問題は、スターリンの死んだ後に当初マレンコフが指導部のトップに就いた。マレンコフは、今後は重工業にかわって、消費物資生産にもっと力を入れるべきだと提唱するが、その時はフルシチョフも一緒になってそれは修正主義であると反対しておしつぶした。一方フルシチョフは、農業問題では農業が遅れていると問題点を指摘している。全体としての経済政策は変更しなければならないけれども、まずどちらの方向に行くべきかは、かなり論議があった。ここのところは十分な研究が必要だろうと思う。

一九五六年の二十回大会の時期から本格的な改革に乗りだそうということになってきて、学者の論争も活発になる。六〇年の前半までに、われわれもいくらか議論したようないろいろな人たちの提案が出てくる。

同時に併行してポーランドなど東欧諸国でも議論が起こる。「古い計画化と新しい計画化」の論争がポーランド等で活発に行われた。

ところがその当時にはイデオロギー的制約があった。五六年の二月に二十回大会をやるわけだが、この頃にはフルシチョフはトロツキー、ブハーリンに関連した評価を少し修正しておかないと先に進めないという考え方をもっていたようである。これをスースロフなどいわゆる保守派の指導者たちが抑えにかかる。これが五六年六月に開かれた中央委員会である。この辺のところはR・メドヴェーデフの書物(『ニキタ・フルシチョフ』等)に述べられている。

学者の水準ではいろんな論争があったが、政治的な決定に至ったものは、フルシチョフ失脚後の六四年「コスイギン改革」である。これは結局失敗に終った。

これらのことは六八年のチェコ事件とか七〇年、八○年のポーランド事件の前段階として、もう少し研究すべきであったと思う。

 

共存理論の再検討

 

もう一つの大きな問題は国際政策である。国際政策の問題は今の国内政策の過程と関連がある。

フルシチョフは二十回大会で平和共存の方針をレーニンのそれに依拠するという形で出すが、本当にそう理論づけできるのか。レーニンの共存理論というのは本当はどうであったのかは、はっきしていると思う。レーニンの場合には一種の休戦状態、戦争と戦争との間の休戦状態を社会主義が利用することが基礎になっており、フルシチョフの主張したような理論づけの根拠にはならない。

ここではまずレーニンの共存の理論というのが何であったかを議論する必要がある。それから次の段階は、ブハーリンの時代のコミンテルンの反戦・平和政策である。当初は戦争に反対するたたかいというスローガンだったが、ブハーリンの時代に平和のためのたたかいというスローガンが出される。これはプハーリンの失脚とともになくなり、再び戦争に反対するたたかいとなる。ここのところはもう少し掘り下げて議論する必要がある。

次の段階は先ほどのマレンコフだが、マレンコフの時代になるとソ連も原爆を持つようになり、核戦争も可能な時代になってくる。マレンコフは核戦争の時代には戦争の性格も変わるといち早くとなえている。彼の国内政策とも関係がある。その当時はフルシチョフなども一緒になって修正主義だとこれをつぶす。

その次の段階は、フルシチョフの二十回大会における革新的な提起がもたらした国際論争がある。このなかで一番大きな問題は、戦争と革命の問題である。ここのところは、今述べてきた順序で、レーニン、コミンテルン時代、マレンコブと歴史的な経験をふまえた議論が必要であると思う。

この当時のトリアッチの立場は少数派であった。トリアッチはフルシチョフの路線を全般的には支持しながら、ソ連のなかの保守的な指導方針に対するが、フルシチョフとは必ずしも一緒ではなく、かなりちがった方針を提案している。その一つが平和共存の問題である。イタリヤ共産党は平和共存のたたかいという(コミンテルンのブハーリン時代に一時あった平和のためのたたかいに似た)表現を使っていた。

今のようなことが、私の言っている歴史的な経験の批判のあらすじである。他にもいろいろあるが、とりあえず二つの大きな問題をとりあげてみた。

 

モデルと指導政党

 

最後の結論として、これからの改革の道だが、まず前提として社会主義のモデルと思われていたものがまったく崩壊したといえる。

ソ連であのように十九回党協議会が、ハンガリー、ポーランドでは思想ではなく、政治運動の多元性となってきている。ゴルバチョフはむしろポーランドを側面援助する形で政治的な多元性が必要であると言ってモデルといわれたものがまったく倒壊してしまっている。

これと関連して指導政党の問題がある。ポーランド、ハンガリーの場合には指導政党という理論は放棄されたが、それ以前に指導政党が現実にその機能を果たさなくなってきていた。とくにポーランド、ハンガリーを見ると、選挙をやって国民に信を問うとほとんど共産党が落ちる。すでに社会的な水準では、政党とは言わないがいろんな政治的な結社ができていて、これらのものの組織的な運動があるという分析があるが、そうだろうと思う。ソ連でレニングラード州党第一書記ソロビョーフ政治局員候補(当時)が落ちたのも、昔の社会民主党系の政治運動の影響が非常に強いとの分析もある。市民運動のレベルではいろんな政治的な結社ができて、相当運動している。

それに対抗して共産党が自分のヘゲモニーの機能を現実に果たせなくなっている。

 

漸進的な改革の道

 

改革の道については、理論的には相当急進的な議論をする必要がある。早急に運動の展望を切り開く必要があるわけだから、理論的な側面では相当過激なことをやる必要もあると思うが、政治的な選択、政治的な行動としては、改良主義というか漸進主義で進まざるをえないだろう。この二つの側面をわけて考える必要がある。漸進的に進むということは、民主主義の場で中間的な課題を適確に提起していくことである。これがいまの共産党にはできなかったことだ。共産党が正しい音心味で「綱領の党」になることが必要である。中間的な課題をふくめ政治的綱領を適確に提起してそのまわりに自由に結社する。ブルジョア民主主義の時代に少しずつできてきた本来の政党、そういうものになっていかないと、いまの共産党のような「マルクス・レーニン主義の信仰にもとつく党」という形で結社をはかり、それによって指導性を獲得していくというのは非常にむずかしいであろう。

いま最後に述べた民主主義の場で、政治的綱領を提唱し、変革のための合意を組織しようとする改良の党を建設するには、一番目、二番目に述べたような前提が必要である。

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人間解放のマルクス主義を求めて<討論>

われわれのめぎす社会主義とは何か

松江

労働運動研究 198911月 No.241

 

疑問と既存の教条

  植村さんが歴史的、全面的な展開をざれているので、私は過去を振り返りながら私の思想的な反省のなかから現在の問題を再追求してみたいと思う。

  私自身のコミュニズムの運動のなかで自分の思想史という点から見ると、自分がこの前の戦争と原爆の間をすりぬけるようにかろうじて生きのびたということから、戦争にたいして何もできなかったという悔いと負い目が、反戦運動からコミュニズムの運動、社会主義運動へととび込んだ私を完全燃焼させた。だから疑問とか懐疑とかというものは戦後はじめの数年間は全くなかったわけで、ほとんど私にとって運動と組織とは「神」のごとき存在であったといま思う。

  その私が最初に自分のなかからどこかに疑問と懐疑を感じ始めてきたのは個人的な経験に則して言えば、「五〇年分裂」とそれ以降のコミュニズムの運動のなかにおけるさまざまな経験――ある場合には陰惨な、ある場合には激烈な指導権争い―などのなかで疑問が湧いてきた。

  いま考えてみると、この疑問はマルクス・レーニン主義の内部から生まれ、組織の方針がマルクス・レーニン主義にはずれているのではないかという疑問より、マルクス主義以前というか、運動に入る前の自分のなかにあったもの、むしろ一人の人間として自立的に進歩的な運動にかかわっていく場合に自明の前提になるような自覚と基礎から生れた疑問であった。ところがそういう過程を経ながら、やっぱり自分が学んだマルクス・レーニン主義のテーゼやプリンシプルのなかにその疑問を無理矢理におし込んでいくという惰性で、一九五〇年以来さまざまな運動と経験を経ながら、もちろん少しずつ変化はあったが、やはり既存の教条から抜けでることができなかった。

 

画期のポーランド問題

 

  そういう意味で私にとって一つの画期となったのは、八二年の『労働運動研究』一月号で、長谷川さんが労働運動の、遊上さんが新旧左翼の問題点を提起し、私が現代における社会主義の問題点を提起して、いまここにいる人々と討議したことです。いま読み返してみると、私はあのなかで初めて、資本主義国内における社会主義をめざす民主主義の徹底化の運動と現存社会主義に欠落している民主主義をどう実現するのかという問題を相互に照応させつつ世界革命に進む歴史的な過度期の問題としてとらえなければならないのではないか、と提起している。

  私がこうした提起をしたのは当時のポーランド問題からきている。結局、唯一前衛党論からいうと、何もかも指導すべきはずだったのに、それとはまったくちがった経路から労働者の運動がグダニスクのストライキ委員会からはじまってあのような運動に発展した。しかもそれが党の指導する政府と一定の社会的契約を結ぶという事態は、まったく今までになかったもので、それ以前にチェコの問題があったが五ヵ国の軍隊の侵入で葬り去られてしまったという状況のなかで起きたポーランドの事態は、私にとって非常に大きな影響を与えた。

 

論争のなかで核心へ

 

  結局それが一つの転機、出発点となって、その後の論争(一九八三――八四年「労働運動研究」)のなかで、初めてマルクス・レーニン主義の自分の知っているテーゼやプリンシプルから事実を見るのではなく現に起きている事実からテーゼやプリソシプルを検証・検討するという批判的な見方ができ始めたのは、ようやくあの頃からだったのではないかと思う。

  それは考えてみると、コミュニズムの運動や組織というものが、いわゆる一般の通常社会とは隔絶した一つの別世界、別天地として、そのなかだけに通用するようなテーゼやプリンシプルのなかに外界に起きている事物を当てはめて捉えるというやり方が一体どうであったのかということが、あの頃になってやっとわかってきたような気がした。

  そこから結局私にとっては初めて唯一前衛党に対する批判というもの、またたとえば選挙というものに対して、社会主義では選挙は不要であれは民主主義ごっこだと当時はソ連で言ってたが、やはり社会主義のなかでも対立=競争はあり、それにたいして批判=選択がなければ民衆の要求は反映できない。唯一前衛党論は、どんな批判があっても結局その党の自浄作用を待つしかないということできわめて非合理的で非民主的で非民衆的であって党=国家のタブーでしかない。だがそういうものがやはり長年自分の思想のなかの中心部に位置して坐っていたということに対する反省と、それを内側から少しずつ改良していくのではなく、外側に足場を置いて根底的に見直すことが必要だと思い始めた。私の思想史としては、あの論争の過程すなわちポーランド論争、チェコ問題の論争、あるいはソ連とイタリア共産党の論争、それからわれわれが直接係わってたたかわした諸論争のなかで思い切って問題の核心へ遅まきながら迫ってゆくことができたのであった。

 

ネップの捉え直し

 

  先ほど植村さんが詳しく全面的に展開されたものに、いま全部にコミットすることはできないが、たとえばいくつかのキーワードのような形で言うと、さっき「ネップ」の問題が出されたが、私も「ネヅプ」には強い関心をもっている。「ネップ」は当時のレーニンもソ連の歴史のなかで簡単にすぐ克服さるべきごく短い期間というような捉え方ではなかったように思う。かなり歴史的に重要な特殊な過渡期として捉えられていたはずだった。ところがスターリンによってそれがたちまち「追いつき追い越せ」路線を前提にした生産力論によって農業集団化、重化学工業化ということで一足とびにとび越していってしまった。私はソ連の経済史のなかで、格別に遅れ歪んだロシア資本主義経済の改革・革命にとって大事なところだったのではないかと思う。ゴルバチョフの提起やソ連の学者たちの論争で見ると、「ネップ」の問題をもう一度捉え直すという問題が出てきているように、私の見ている範囲では思える。

 

原点そのものの検証

 

  植村さんが言われたように三段構えがあると思う。マルクスがあり、マルクスをその限りで理解したレーニンのマルクス主義があり、そのまたレーニン主義みたいなものを自分なりに理解したスターリンによるレーニン主義従ってスターリン的なマルクス主義、こういう重々段々な発想があるわけだが、それを原点に返ってもう一度見直すということだけではなく、原点そのものもいまの具体的な事実、現実と照らし合わせて、もう一回束縛されずに捉え直して検証することが必要になってきていると思う。それをやらない限り発展は出てこないと思う。

  そういう意味では、われわれもかって保守派であり、またいまでも、怠けていればいつでも保守派に転落する可能性はある。もしわれわれが本当に進歩派であろうとすれば、新しい事実のなかから捉え直すことが必要ではないか。それがマルクス主義の方法論であり哲学ではないのか。

 

平和共存論の見直し

 

  二番目のキーワードとして「平和」・「平和共存」の問題がある。私が読んだり考えたり再追求した限りにおいて、まさにレーニンはさっき言われたとおりで、一定の概念にいろいろなものを投げ込んで風船みたいに吹くらました体系的な論として引き廻すのではなく、もっと率直に革命後の平和をかちとることが革命ロシアを守っていく上で重要だということで率直で素直な事実に即した方針である。私の理解によると、平和共存論を打ち出したのはスターリンだったと思う。スターリンが第十四回党大会(一九二五年)以来なんべんも平和共存論を展開している。スターリンの場合には世界市場論と結びついた形で、この平和共存論が出されてきている。つまり社会主義市場と資本主義市場の対立のなかで資本主義に「追いつけ追い越せ」路線を実現して一国社会主義建設をすすめ社会主義ソ連を帝国主義の攻撃からまもるためには平和共存が必要だとする。ところがフルシチョフになると、その平和共存が国際的な階級闘争の一形態という国家と階級を混交したまったくおかしなテーゼに再構築され、ますますその内容がふくらまされ、固められていくという事態が起きてきた。

  いまゴルバチョフ自身ももう一回そこのところを見直して、二つの市場の対立を前提にした体系的な革命論の一環のように粧って実は社会主義防衛論あるいは政治的掛け引き論のようなものとしてではなく、「新しい思考」というのはいろいろ問題はあるが核時代の思想としての平和あるいは平和共存という今日の問題を再追求しようと思い始めている節がみられるような気がする。

 

「唯一前衛党論」

 

  それから三つ目にはさっき言った「唯一前衛党論」で、さっきは指導政党といわれたが、指導政党ということはマルクス・レーニン主義党は一つしかないし、誤ちを犯さずいつも正しいその党がすべてを指導するのだという、無謬論と一枚岩論、前衛党論と唯一指導党論は、相互に照応しつつ一つの体系に凝集したものであるが、こういうものがかなり遅くまでわれわれの心の中に残っていた。それからも当然解放されなければならない。

  経済史における「ネヅプ」のとびこえ、政治史における「平和共存」、組織史における「唯一指導党」という三つの問題はひとつながりである。不可避的な戦時共産主義から内戦後の再出発ー資本主義から端緒的な社会主義への過渡期として長期に亘る「ネップ」は、同時に戦時期における政治的な急進期から社会主義的民主主義への転換という重要な過渡期であった。しかしスターリンは生産力論にもとつく農業集団化・重化学工業化を急いで「ネップ」をとび越え、その急進的な過渡期を市場論にもとつく「平和共存」論でカバーしつつ「唯一指導党」による一国社会主義の完成をめざしたと思われる。それはすでに歴史と現実の分析を基礎にしたマルクス主義でもレーニン主義でもなく正に恣意的なスターリン主義に外ならぬ。

 

客観主義的史観の克服

 

  私はいま若い人たちとの勉強会でグラムシの『獄中ノート』の読み直しをやっているが、いままで概念的にとらえていたものをもう一度思想というか哲学という意味で、グラムシの提起している問題の重要性を考え直し始めている。たとえば唯物論がともすると陥りがちな客観主義的史観。さっき科学的な法則論といわれたが、つまり人間存在自体もそのなかにとり込まれ客観化されてしまった必然論=宿命論のような法則論。ところがグラムシは生産力と生産関係との関係をスターリン的な機械的断定ではなくある種の相互作用として捉えている。さらに、科学的な予見という問題を、予見しようとしている人間から切り離して見ることが科学的だというとらえ方に対して、再検討しなければならないと指摘する。予見をする者が一つのプログラムをもって働きかけ今後情勢がどう動いていくかを捉えきった時に初めてそれはその人にとって客観性をもつという捉え方、もちろん一方における主意主義的なものに対しては厳しく警戒しながら、長い間少なくとも私のうちにあった科学的な法則論というものの認識の仕方をもう一度考え直してみなければならないという契機を与えてくれた。

  考えてみると戦後初期の、今から考えると別世界のようなコミュニズムの運動のなかでは一定のメガネでしか社会も、現在も未来も見れなかったし、そのメガネにうつらないものは存在しないかのように考えていたあの当時、たとえば梅本克己が提起した主体性論に対して、当時の日本共産党は近代主義だといって厳しく批判し、まるで革命の反対物のようなこっぴどい批判をしたのを憶い出す。たしかにそのなかには主意主義的な、近代主義的なものはあったと思うが、どうもそれを近代主義とだけ斬り捨てにしてすむ問題ではなかったのではないか。あれは当時支配的だった唯物論的客観主義とでもいうような決定論に対する一つの抵抗として出ていたのではなかったか。

 

日本の運動の変革

 

  自分の思想史とコミュニズムの運動史、あるいは現存社会主義の歴史、これらを重ね合わせ照らし合わせて見ていく時に、いままでの自分のメガネとはちがった生の目でようやく八○年代から少しずつ見え始めてきているように思うし、さまざまな歴史的論争のなかで見る目が育てられてきたと思う。

  そういう点では植村さんも言われたように、新しい改革の道、すなわち現存社会主義の革命的な改革という問題と、資本主義国内におけるマルクス・レーニン主義党あるいは社会主義をめざす革命運動というものの再追求・改革の問題と、これは決して別のものではない。ポーランドも変わりましたね、ソ連も変おりましたね、と言いながら、こっちの内側はちっとも変わっていないのでは、まったく意味がない。やはり日本の運動のなかにある古い教条的なものや一人合点している恣意的なもの、そういうものを批判することと、現存社会主義が模索しながらすすめている運動、あるいはそれをとり囲む民衆の要求と行動、そういう問題をバラバラな問題としてではなしに、統一的な世界史的過程として捉え直していくことのなかに、新しい改革の意味があると思う。

  そうしていま何より重要な問題は変革のための運動論や組織論だけでなく社会主義論全体について追求し直し、問い直すという根底的な問題であると思う。すでに分り切っているという問題を、私達はもう一度疑い直すことこそマルクス主義に立ち還ることではないか。

 

われわれのめざす社会主義とは何か

 

  一体われわれのめざすものは何なのか、社会主義とは何か、あるいはわれわれがめざしている理想社会とは何か、ということを探り直す必要がある。それはたしかに大いに豊富な物質的な世界が前提になるというけれども、それで新しい理想社会ができるのかどうか。この問題は単にその社会だけの問題ではなくて、もっとグローバルに、資本によって破壊される地球の環境の問題、エコロジズムの問題、それから途上国の問題、一方では飢えて大国の収奪の犠牲になり、他方ではその故に生活を維持してゆくために環境を壊さざるを得ない状況がある。そういうグローバルな問題もふくめながら、われわれのめざす社会主義とは何か、それをもう一度さぐり直していく必要がある。

  私は革命論というのは三つの要素があると考えている。一つは目標、われおれは.何をめざすのかが必要であり、もう一つはその目標を実現するはの誰なのかという問題、われわれは昔から今日まで労働者階級を変革の主体として追求してきたが、その労働者階級というのは一体どうなっているのかという問題をもう一回さぐり直す必要がある。唯一前衛党論では、労働者階級を非常に抽象化し現に存在している労働者のさまざまに分節した諸運動というよりも、拙象化された労働者階級の代理的なエリートとして労働者階級を代位するという名分がつくられてきた傾向が強い。三つ目には、どんな方法でめざす社会に移っていくのかという問題がある。これは昔から論議された問題だが、前の二つの点と照応させて追求し直していかなければならぬと思う。

  われわれの資本主義社会においてめざす社会にアプローチしていく方法の問題と、現存社会主義がどう改革してめざす社会に到達できるのかという問題、これは決して別のことではないと私には思える。それは社会主義における民主主義の問題を、単に過渡期ととらえたり手段にするだけでなく、めざす社会主義の最も本質的な性格としての民主主義である。

  植村さんの問題提起に関連して十分コミットしていないが、私なりの反省もふくめていくつかの考えている問題点を述べました。

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人間解放のマルクス主義を求めて

歴史の見直しはわれわれの問題

遊上孝一

 

 

「死者の数をかぞえよ」

  植村報告の問題提起を理論問題として、基本的に賛成したうえで、それを前提として、脱線した形で二つほど言いたい。

  一つは自分の政治活動の中に起こった経験の理論化、これはぜひやりたいと思う。

  たとえば戦前は縁の下の一番末端で党内対立もなしに中央でどうであろうとやった。これはある意味で単純で、ある意味で幸福だったとさえ思う。内部対立がなく、中央の方針がどうであろうと、そんなことできるかと、今やるのはこういうことだろうという形で活動できた。

  戦後になると除名二回、査問が十回位経験している。たとえば先ほど松江さんが出した五〇年問題のときには、スパイという噂さえが流された。それがいまだに六全協を経ても、誰が言ったのかということさえもわからない。結局誰かが党内闘争の手段としてそう言ったらしいとしか考えられない。

 それと同じように歴史家が調べたところでは五〇年分裂のときに、一二〇〇人位が除名されている。その多くはスパイ、「マーフィの手先」のレッテルを張られた。それで東大の学生が「死者の数をかぞえよ」という有名な詩を書いた。

これらもまったく解決されていない。見直しというのは「われわれの問題」ではないのか。

  伊藤律の問題もその一つだろう。発表された限りでは、スパイの断定はあの文書の限りではわからない。当時、党内ではそれを支持するということ自体が党内の処世術としては必要な条件であったと思う。

  そういう意味で、スターリン主義の克服とか歴史の見直しとか言われているものを、やはり自分が関係した政治生活のなかで可能な限りそれぞれの集団でやる必要があるのではないか。

 

多様な意見の対話を

 

  植村報告は歴史的には解決したという。私個人もそう思う。理論上の問題として。しかしそれがいわば左翼の人たちの共通認識になっているかどうか。国際的にも共通認識になっているかどうか。たとえば国として言えば、ルーマニアがポーランドに軍事介入さえ考えていたと言われている。われわれが理論的に解決している問題と現実に政治的に解決している問題とは同じではない。たとえば社会主義国でいえば東独とルーマニアと中国をふくめて見た場合、そういう現状にあるのではないか。

  と同じように日本のわれわれをふくむ左翼の状態はどうなのか。これは何派とかいうことを離れて、かなり多様ではないか。今日理論上では歴史的に解決したと私も思うが、実際上では必ずしもそうでなく、割り切れない側面があるのではないか。

この現実にたいし、多様な意見の対話を組織することを検討したい。

  この際、われわれがうけついできた負の遺産である不寛容さを除きたい。いかなる意見にたいしても、排除の論理をつかわない。レッテルを《人間解放のマルクス主義を求めて張らないということである。

  そして理論の交通整理を試みたい。例えば「社会主義」という概念自体の理解が分裂し多様である今日の現実をみすえての対話が希まれていると思う。十月号の「焦点」で私はそのことにふれた。

 

 

ペレストロイカと地殻変動

山本正美

 

第三次産業革命の課題

 

  私はペレストロイカの問題を扱うときには、その背景であるグローバルな地殻変動をみることが重要だと思う。その地殻変動は現存する社会主義、資本主義諸国そして開発途上国で共通に起こっている。

  資本主義ではアメリカが世界最大の債務国に転落し、ブラック・マンデーに象徴される経済的困難を強めており、経済大国日本でも自民党政治がかつてない危機にみまわれている、革新の運動の内部で、革新政党や労働組合の比重が低下し、未組織」の大衆、市民、科学技術者、宗教家、エコロジストなどの運動が活発化している、労働者階級の内部構成においても、知的能力の比重が高まり、労働形態も多様化してきた、などの大きな変化が起こっている。

  これらの変化をもたらしている要因としては第三次産業革命の進行がある。その中心は原子力と電子工学である。

  次に社会主義についてだが、現存の社会主義がかかえている問題の第一は、歴史的なものである。社会主義はマルクスの予想に反して、先進資本主義諸国から生まれたのではなく、むしろ帝国主義に抑圧され掠奪された地域で、戦争などによる矛盾の激化のなかから誕生した。だから社会主義は出発点からさまざまな後進性と矛盾を内包しており、いまだにその課題をかかえている。この後進性と矛盾からの脱出という課題に加えて、第三次産業革命という現代的な課題も同時に解決しなければならない。ここに大きな困難がある。

  さらに社会主義の内包していた客観的矛盾の解決の仕方において、レーニンとスターリンとでは大きくちがっていた。レーニンはあくまでも大衆の要望の上にたって民主的なやり方で矛盾の解決をはかろうとしたが、スターリンの場合には、労働者の独裁ではなく共産党の独裁へ、そしてその後はスターリンの独裁へと変質させてしまった。まずこの問題の克服がいまペレストロイカのなかで追求されている。

 

 

 

人間解放のマルクス主義を求めて

社会民主主義の再評価を

柴山健太郎

 

「私の大学」とジレンマ

 

  私は一九四九年に学生運動に入り、,そこから共産主義運動に入り、一九五〇年の日本共産党の「五〇年分裂」を契機に農民運動に入り、当時の日本で最強といわれた茨城県の常東農民組合のオルグとして七年近くいた。いわば常東が「私の大学」だったわけだが、あの当時、山口武秀氏を先頭とする常東の共産主義者グループは、日農統一派の一柳、遊上氏ら農民運動研究会の「反独占」グループとともに日本共産党の五一年綱領(「新綱領」)の反帝反封建戦略に反対して闘った。そのためわれわれは「新労農派」や「スパイ・トロツキスト」というレッテルがはられたわけだが、その当時のわれわれは例外なく「スターリン主義者」だった。いまの植村さんの報告のように、当時のわれわれの思想は、スターリン的に解釈されたマルクス・レーニン主義思想だった。後で分ったことだが、この「新綱領」はスターリンの指導下に作成されたわけで、われわれはスターリン主義的なマルクス・レーニン主義でスターリンの誤まった農業革命戦略と闘っていたことになる。

  ソ連共産党第二〇回大会のスターリン批判や、イタリア共産党第八回大会の「綱領的宣言」やトリアッチの論文などは非常に勉強になったが、今述べたようなジレンマはその後も長い間私の政治生活につきまとっていたように思う。

 

ウィーンでの誤り

 

  今でも憶い出すが、私は一九五九年夏にウィーンで開かれた第七回世界青年学生友好祭に参加したことがある。その当時は丁度ハンガリー事件の記憶がまだ生々しい時代で、ウィーン滞在中にハンガリーからの亡命青年で組織されている団体が日本代表団に話しあいを申し入れてきた。これが日本代表団の会議で討議になったが、われわれ共産党のグループは拒否することを主張して実現させなかった。さらに祭典終了直前にユーゴスラビアから日本の農村青年代表団を招待したいという申し入れがあり、社会党員は悦んで賛成したが、私が強く反対したので流れ、社会党員たちと大きなシコリになったことがある。

  当時のわれわれ党員の間では「ユーゴは修正主義」、「ハンガリー事件は反革命暴動」という考えが確立しており、ハソガリー事件に関してはその当時発表された中国共産党中央の「ふたたびプロレタリアート独裁について」の主張のうけうりだった。最近ハンガリー社会主義労働者党がハンガリー事件の「反革命暴動」の評価を否定し「人民蜂起」と規定しナジ元首相らの名誉回復を行なったが、あの当時日本代表団との話しあいを拒否されたハンガリ!の亡命青年たちの心情を想うと胸が痛む思いがする。日本共産党も最近になってハンガリー事件の再評価を行なったが、あの当時党のハンガリー事件の評価に反対して除名された当時の党員の名誉回復には全く触れていない。こういう歴史の見直しは、到底真剣なものとはいえない。

 

冷戦体制の影響

 

  『労研』誌上で八四年から八五年にかけて行なわれた論争についていうと、あの時のテーマは社会主義体制の優位性とは何か、現存社会主義と民主主義、八十一力国声明の評価、全般的危機論、平和共存論、プロレタリア独裁とヘゲモニー、社会主義への平和移行など多岐にわたっていた。

  あの時の論争で私は松江さんの「モスクワ声明」や全般的危機論の批判に反論したわけだが、あの当時のわれわれの意見の根底にあったのは社会主義と帝国主義の両体制間の対決を国際共産主義運動の最も重要な要素と考える観点だった。事実、私が運動に入った直後に発生した一九五〇年の朝鮮戦争、第一次インドシナ戦争、キューバ危機、ベトナム戦争などは、こうしたわれわれの考え方をさらに強めることになった。

今から考えると、社会主義の側にも外交政策や国際路線の面で「極左主義」的な誤りもしばしばあり、これが冷戦をさらに激化させる要因になったと思うが、やはり冷戦体制というものはスターリン主義の克服を困難にした最大の原因の一つだと思う。

 

民族問題の過小評価

 

  今から思えば「モスクワ宣言・声明」には、情勢の過大評価や重大な認識の誤りもあった。それは発表直後に中ソ共産党の論争が激化し、国家間の対立にまで発展し、社会主義体制の団結に大きな亀裂が生じ、その後の国際労働運動の発展に大きな否定的な影響を生じたことにも示されている。この他にもユーゴスラビアを修正主義ときめつけたり、ヨーロッパ以外の資本主義国の革命を反帝反独占の民族民主主義革命と規定したりする誤りもあった。だが中ソ論争における中国共産党の世界革命戦略、つまり米ソ両超大国に対して第三世界を結集して対決するという「三つの世界論」や、「レーニン主義万才」の論文で主張された「人民戦争論」などに比べれば相対的に正しいし、これに代わるべきテーゼはないというのが当時の私の考えだった。

  しかし、中ソ論争にしても、コミンテルンの中国革命の指導に対する批判から戦後のソ連の大国主義に対する反発までその根は深かったが、やはり中ソ対立の激化の最大の原因は、社会主義発展における「ソ連モデル」の強制にあったのではないかと思う。ユーゴスラビアが社会主義体制から離脱した原因もそうだったし、一九五六年のハンガリー事件も、一九六八年のチェコ事件も、一九八一年のポーランドの戒厳令も、つきつめるとそれぞれの民族の置かれている条件の多様性に対応した多様な社会主義への道の探究を「資本主義への復活」や「修正主義」ときめつけるソ連共産党の態度に原因があった。私のハンガリー事件や中ソ論争の評価にはその点や民族問題の分析が決定的に不十分だったと思う。最近のバルト三国やアゼルバイジャンやウクライナ問題やユーゴスラビアなどで民族問題の根深さを痛感するにつけて、社会主義国家間の対立の問題の評価において民族問題に対する理解を絶えず深めていかないと大変な誤りをおかすのではないだろうか。

 

政治的リアリズム

 

  現代社会主義論争では、「モスクワ声明」のテーゼの現状規定と現実の情勢が非常にズレてきていることから論争が生じたわけだが、「具体的情勢の具体的分析」というマルクス主義の基本的態度からすれば、私の当時の主張は極めて不十分で分析が浅かったと思う。やはり一九七五年のベトナム戦争の勝利はアメリカ帝国主義に対する社会主義諸国と世界の全平和愛好勢力の勝利で、あの当時はポルトガルの植民地体制の崩壊、OPECを中心とした産油国の資源自主権のための闘い、ヨーロッパ労働運動の高揚を背景としたユーロコミュニズムの発展など国際労働運動にとって有利な条件が生まれたわけだが、そうした有利な面だけを過大に評価し、現代資本主義のもつ巨大な潜勢力を軽視したことが、一九七〇年代以降の国際労働運動の敗北と後退と混迷の原因になり、レーガン、サツチャーの新保守主義の勝利の決定的要因になった。

  昨年イタリアに行ってイタリア共産党の幹部と会って話をして感じたことはさすがマキャベリを生んだ国だけあるということだった。あの党は理論と現実にくいちがいが生じた場合に理論を修正することを当然だと考えている。だから党と労働組合の役員の兼職禁止にしても労働組合運動の発展に有害となればたとえ一時的に党に不利になっても廃止するし、戦後大きな役割を果たしたイタリア婦人同盟も国際婦人年以降の情勢に適合しなくなれば解散してしまう。「社会主義へのイタリアの道」もEC市場統合の情勢に適合しなくなれば、「社会主義へのヨーロヅパの道」と、それを達成するための「ヨーロヅパ左翼の形成」を打ち出すというように、つねにダイナミヅクに自己変革を行なっている。これは西独社民党幹部に会った時にも強く感じた。私がイタリア、西独で圧倒されたのはその政治的リアリズムだったが、われわれもこうした態度から深く学ぶ必要があると思う。

 

社会民主主義の再評価

 

  私もここ数年社会民主主義に対する再評価の必要性を痛感している。最近私は西独社民党の基本綱領草案(ブレーメン草案)を翻訳したが、基本的人権と人間の尊厳に基づいて自由・公平・連帯の社会主義社会をめざすという態度に非常に感銘を受けたが、スウェーデンや北欧の社民党やイギリス労働党の最近の動きを見て社会主義インターの役割を再認識させられたが、やはり現時点に立って第ニインターとコミンテルの再評価が必要になってきているように思う。国際共産主義運動の機関誌である、『ワールド・マルキスト・レビュー』誌では八七年五月号で「平和闘争における西欧共産主義者と社会民主主義者の関係について」というテーマで西欧共産党代表者のシンポジウムを行ない、この中で社会民主主義者の平和問題に対する態度が最近急速に良い方向に変化してきているがその原因と労働運動に及ぼす影響などについて論じている。西独社民党にしても、戦後社会主義インターの先頭に立って共産党と対決してきたのが八○年代後半から一変して、イタリア共産党と連携してヨーロッパ左翼の形成をめざし、一九八七年には東独の社会主義統一党と一九一九年のドイツ社民党分裂以来初めて「イデオロギー論争と共通の安全保障」という共同の政治文書を発表するという大変な変りようを見せている。

  イタリア共産党も一九八六年のフィレンツェ大会で自党を「国際共産主義運動の一部」とする従来の規定を明確に否定し、「ヨーロヅパ左翼の不可欠の一部」であるとしてヨーロッパの社会民主主義諸政党とも「緒になってEC市場統合の条件下で「社会主義へのヨーロヅパの道」をめざし、ヨーロヅパ左翼の形成のための独自の探求を行なっている。これを「イタリア共産党の社民化」とみる見方が多いが、片桐薫氏は本誌五月号の「旧い社会主義の世紀は終わった」という論文の中でそうした見方を否定し、「重要なことは、共産主義と同様、社会民主主義そのものも変質を余儀なくされており、伝統的概念で社会民主主義政党と規定できるような政党は、今日、ヨーロッパには存在しない」と述べているが、まさにその通りだと思う。とくにイタリア共産党の最近の主張で重要なことは民主主義を社会主義達成の手段とみなす考え方を否定し、民主主義の独自の価値を認めていることだ。中国の天安門事件以後われわれの間でも「一体社会主義は民主主義に耐えうるのか」という深刻な論議があったが、われわれは社会主義と民主主義の問題をもつと徹底的に迫求する必要がある。

 

壮大な歴史的実験

 

  最近ペレストロイカをめぐってソ連、ポーランド、ハンガリーを問わず各国共産党内部で激しい党内闘争がおきているが、その最大の争点は政治改革、とくに複数主義である。

植村氏は一九七〇年代の初めからポーランドの学者のブルスの主張を紹介し、現存社会主義諸国で発生する諸事件の根底に社会主義的生産力と政治関係の矛盾があることを指摘してきたが、この主張は卓見だったと思う。まさにソ連、東欧と中国などに生じている諸困難や矛盾は、社

会主義的生産力の発展にスターリン主義的政治関係が対応しきれなくなってきていることにある。人民諸階層の意識も価値感も多様化し、国家機関と一体になった共産党の独裁では、到底代表しきれなくなった。ポーランドやハンガリーだけでなく、ソ連でもバルト三国やウクライナ、モスクワやレニングラードを始めとして人民戦線などの政党的機能をはたす組織が続々と結成されている。

こういう諸政党、団体がお互いに協力し、競争する以外に「人間の顔をした社会主義」は達成できないのではないか。

  いまブルジョア・マスコミは「社会主義は崩壊しつつある」と大宣伝を行なっているが、その崩壊しつつあるソ連に国際政治がリードされているというのも奇妙な話だ。

崩壊しつつあるのは、スターリン主義体制であって、社会主義は、再生の過程にあるというのが、私の意見だ。この中で共産党が、主導的役割を果せるか否かは、共産党が他の政党と協力し、競争しつつ政治的・文化的諸勢力を結集して新しい社会主義社会を建設するヘゲモニーを発揮しうるか否かにかかっている。そういう意味では、社会主義は壮大な歴史的実験の段階にあると思う。

 

対話と論争を

日本の社会主義運動の再生にむかって

 

マルクス主義の方法論

 

松江 植村さんに聞きたいことがある。さっき言われた、いろいろな解釈のマルクス主義があるが、もう一つ方法論としてのマルクス主義がある。その方法によって蔵のなかに収納しえた過去の重要な諸成果、蓄積といった問題を、ただそれだけですぐマルクス主義そのものとして見ていいのか。マルクスは一八一八年生まれで、私は一九一九年生まれであるから、私とでも一世紀以上時間的なギャップがある。この一世紀の間には急速な進歩があい次いでいるし十九世紀より社会のしくみは著しく複雑になっている。かつて真理であったものが一世紀もの間、不変であるかどうかという問題にとって、条件はあまりにも変わってきている。むしろ真理を探求する方法論としてのマルクス主義という問題が非常に重要ではないのか。

  日本の俗論ではマルクス主義の評判が落ちているようだが、欧米では再びマルクス主義が盛んになってきている。それは結局マルクス主義のもつ全体性、全般性というものが評価されているからだ。いま思想や理論が分化して部分的になったり一面的になったりして全体性と全面性が失なわれている。そこで世界と人間をもっとトータルにつかむうえでマルクス主義が改めて見直されている。そういう方法論的な意味で捉えていく必要があるのではないか。これはごく基礎的な問題だが、植村さんはどう思うか。

 

念入りなマルクス主義

 

植村 その点はそういうことだろうと思う。関連して一つ思うのは、われわれにソ連なり東欧なりのいろいろな人びとの理論というものがあまりたくさん入ってこなかった(われわれの力不足も大いにある)。最近ペレストロイカの時代になってから、ソ連の人たちのいろいろな意見が入ってきた。以前はポーランドやハンガリーの人たちの提起や理論はそんなには入ってこない。それで、一方の主張のみを無批判に受け入れて、例えば、ポーランドのクーロンとはこういう人だろうとか議論したりするところがあった。

  あの人たちの理論は、最近少しずっ読めるようになってみると、共産党を相当こっぴどく批判しているから、あれは反マルクス主義だとすぐ言う人がいるが、あの人たちのマルクス主義は非常に念の入ったものと言うか、念入りに調べたものという感じがする。ハンガリーのアグネス・ヘラーという有名な哲学者のものとかポーランドのレシェク・コラコフスキーのものとかを最近になってよく読んでみると、非常に念入りにマルクスのいろんな理論を考証して組み立てている。彼らは、西欧の「ユーロ・レーニン主義」のあいだでアルチュセールの理論が流行していたときに、マルクスの解釈や最近の理論的な傾向の理解等に関して、アルチュセールを非常に厳しく批判をしているが、当っているように思われる。

  ある意味では虐げられたところで、ハンガリーやポーランドで抵抗していた改革派の人たちは、非常に細かく研究していて感心する。

 

具体的なものから学ぶ

 

松江 もう一つは、日本だけでなく全般的にそうかもしれないが、"ペレストロイカ"というとそれで万事が済んでしまうようにとらえられたり、"新しい思考" というと言葉と概念が一人歩きしてしまう傾向がある。"新しい思考"は社会主義国の世界政策=外交問題として始まっているのに、ソ連のなかでも歴史における"新しい思考〃をはじめ至るところの部門で"新しい思考"が流行になっている。日本でも"新しい思考"というと、それだけでなにか解決されたような気になっている向きもある。"ペレストロイカ〃にしても、誰がどのように、ということを抜きに概念化してしまう。ペレストロイカも上から始まっていま下からも起き始めているけれど、それがどのような内容なのかが追求されずに、言葉や概念ですまされてしまうという傾向がある。

  東欧でもいくつかの大変ちがった動きがある。まるで正反対に見えるようなものもあるルーマニアとポーランドのように。しかし不均等に発展するのは当り前で、これがそろって命令一下動いたら、そのほうがむしろおかしい。

  だからそういう点で私たちがもっと知りたいのは、さっき植村さんも言ったが、概念的なものとか大まかな形のものは入ってくるけど、もっと内容的なもの、何がどうなっているのか、何をどうしようとしているのか、などについて知りたいし、資料としてもほしい。またもっとわれわれがそういう具体的なものから学んでいく必要がある。その意味では「北京の五月」に象徴される現在の中国についても反面教師として大いに学ぶ必要がある。

  そうしてまた外で起きたことについて学ぶというだけでなく、もし"ペレストロイカ"という言葉を使うなら日本の革命運動、社会主義運動をどこからどのように改革していかなければならないかというわれわれの主体的な問題が出てこないといけないと思う。単に知識として学ぶだけであってはならないのではないか。

 

ペレストロイカ前の理論の研究と復権

 

遊上 ゴルバチョフのべレストロイカの出る以前の(その多くは「反革命分子」といわれた)研究、理論も共同の研究の対象にする必要がある。それらは復権される必要がある。

山本 ソ連の経済改革に関して言えば、消費材の生産が重要であるが、このためには単に軍事生産施設を転用すればよいといった簡単な問題ではない。設備を近代化すると同時に、その設備を扱える労働力の育成が不可欠である。ところがこれは政治改革以上に時間がかかる。だか

ら経済改革は長い目で見守らなければならない。

  そしてペレストロイカの成功は、日本国民にとっても大変重要な問題である。日本国民の運命にも大きな影響を及ぼす。だから事態を観念的にでなく現実的にみつめていくこと「が必要だ。

  もう一つ指摘したいことは、ゴルバチョフが「ノーボエ・ムィシレーニェ」(新しい思考)を出したのは、従来の考え方にとらわれてはだめだということを言うために出したという点である。日本訳では「新しい思考」でもいいが、ちょっとした考え方を変えるという意味ではなく、思想そのものの変革という意味である。思想を含めた変革がすすんでいると言った意味とぴたっと一致している。

遊上 そういう「新しい思考」はゴルバチョフ以前にもあったということを確認する必要があると私は言っているのだ。それをわれわれも尻馬に乗って評価しなかったのではないかという自己批判が僕にはあるんだ。

柴山 今日の話しあいで問題がかなりはっきりしたように思う。日本の左翼の間では、論争を真実に到達する不可欠の方法と考えずに、混乱や抗争ととらえ、論争相手を排除し、その後でその主張を平然と採用するというスターリン主義的手法が、今なお幅をきかせているためいつも同じ誤りを繰返している。労研は今後ともこうした誤まった傾向と闘い、異なる主張との対話や論争を大事にしていきたいと思う。

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社会主義論によせて

―自分史随想−

労働運研究 198910月 No.240焦点

  九月一五日号『朝日ジャーナル』は東欧諸国の動向を小特集しており、表紙見出しは「"社会主義"から脱走する東欧」としている。社会主義は共産党指導下の不動の体制であり、それを逸脱することは反革命に通ずるとする立場からすれば、「脱走」という表現は的をえている。ジャーナリズムだけでない。一部の社会主義国(例えばノイエス・ドイチェラント紙の主張)も同じである。

  社会主義は動いており、社会主義の思想、理想に近づけるために革新すべきだとすれば脱走でなく改革過程と表現すべきだろう。「社会主義」という概念自体の理解が分裂し、多様なのが、いまの状態である。このことの理解をぬきにした社会主義論は反省したい。ポーランド・ハンガリーの社会主義の変革過程は後者の立場である。ハンガリーのイムレ・ポジュガイはいう。「(複数主義などの)様々な改革を行った結果、それが果して社会主義であり続けるかどうか。われわれはそれを問いかけられている。われわれは社会主義建設を捨てるつもりはない。」「将来の社会主義がどういうものになるかは分からない。確かなことは祭壇に祭られた神様を拝むようなものであってはならないということだ。」

  わたくし自身、一九五六年のソ連共産党二〇回大会までは、社会主義を「神様を拝むようなもの」とみていたと反省する。「フルシチョフ秘密報告」の発表のされかたとその内容はわたくしをうちのめした。同時に、そこで提起された「平和を守ることは共産主義者の第一義的任務」とする方針、社会主義建設の多様性の承認、党各委員会の交代制提起などにみられる改革諸方針に期待した。しかし、粛清犠牲者の収容所からの釈放と一時の「雪どけ」とその後の一進一退の状態がつづいた。わたくしは二〇回大会方針の採択即その実現とみ、その過程でのジクザクの決定的要因である党「指導」のありようについて具体的事実の具体的分析を怠ったのである。

  わたくしにとって転機となったのは六八年の「プラハの春」であった。「行動綱領」を始め指導部の諸文書はもちろん、それに批判的な文書をもフォローした。そして、情報の公開と知的自由のもとで、社会主義革新への全人民の参加が実現の過程につき始めていることを感じた。この過程が戦車によって中断されたことは現実の社会主義をマルクス主義的批判の対象にする決定的契機となった。「異端派」といわれている「社会主義」批判者の諸研究にとりくみ始めないわけにいかなかった。五三年の東独の反ソデモ、五六年のボスナニ事件、ハンガリー事件とソ連の軍事介入の時とちがって、七〇年のポーランドのストライキ、七七年「77憲章」の誕生、八○年のポーランドのストライキと自主労組「連帯」の活動、八一年の戒厳令、ポーランドの動きの評価と関連しての八二年のソ伊両共産党論争などには、自らの問題として研究の対象にするようになった。これらの諸事件にたいし、自らの分析とそこからの結論を引きだす努力を抜きにして、日本の変革過程を論ずることは許されないと考えられたからである。おそきに失したとの批判は甘受する。

  社会主義の改革と共産党の改革は不可分である。ポーランド、ハンガリーでは党の改革として、その位置づけの憲法規定さえ廃止されるか、されようとしている。今日、社会主義を論ずることは、自らの党派生活における一枚岩主義とトータルな党論の克服努力を抜きにするわけにはいかない。そういう点も含めて、「自分史」の見直しを求められていると思う。(YK)

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旧い社会主義の世紀は終わった

イタリア共産党第18回大会から

 

イタリア近現代史研究  片桐

   労働運動研究 19895月 No.235

 

  さる三月一八日から二二日まで五日間にわたってローマで、イタリア共産党第一八回大会が開かれた。

同党は、かつてユーロコミュニズムの旗手として、「プロレタリア独裁」を放棄し、「ソ連型モデル」を拒否し、共産主義でも社会民主主義でもない第三の道を積極的に探ってきた。またソ連・ワルシャワ条約機構軍のチェコスロバキアへの侵入を非難し、アフガニスタン問題では、ソ連と真っ向から対立してきた。こうした模索によって国際的にも注目をあび、国内的にも七〇年代半ば過ぎには有権者の三人に一人が同党に確実に投票するまでになった。

  ところが八○年代にはいる頃から、ともにユーロコミュニズムを形成してきたフランス共産党は低落を続け、いまでは七%台の得票率にまで落ち、スペイン共産党はもはや見る影もないほどの弱小政党に転落してしまった。イタリア共産党も時間的なズレや程度の差はあれ、これら二党と同様、衰退傾向をたどり、一昨年の総選挙では二六・六%、昨年の部分地方選挙では二一・九%へと大きく後退した。

  昨年六月下旬の同党中央委員会で、書記長A・ナッタは責任をとって辞任し、副書記長A・オッケットが昇格した。しかしオッケットの副書記長そして書記長への選出には、少なからぬ反対が党内にあった。それだけではない。これまでイタリア共産党は党内の自由な雰囲気によって、意見や考え方の相違が公然化することはあっても、多くの場合、せいぜい多数派と少数派に分れる程度であった。ところが前記のような党勢の衰退をめぐる論議のなかで、七つの潮流の存在がマスコミから指摘されるほどである。すなわち中間派、ベルリングェル派、左派、改革派、歴史的右派、純右派、親ソ(ゴルバチョフ前の)派といった具合だ。

 

「民主集申制」の放棄

 

  イタリア共産党大会が各方面から注目されたのは、新書記長オッケットがこのような党内状況をどうまとめ、党再建の手掛りをどのような方向で提起するかだった。

  大会に提出されたテーゼ草案とオッケット書記長の大会初日の基調報告は、なによりもまず経済、労働、環境など社会を取り巻くさまざまな問題が一段と複雑、多様化していることへの基本認識を示した。そして変化に満ちたこれらの諸問題に対応するためには、従来のようなたんなる穏健的改革批判ではなく、大きな転換の民主主義的統治への移行に取組むことのできる新しい改革勢力の形成が必要であり、それはかつて経験したことのない大事業だと強調した。

  大会は、「新しい路線」を中心スローガンに掲げ、また同党機関紙『ウニタ』は、「古い社会主義の世紀は終わりつつある」と大見出しをつけた。それは、「過去の歴史的な諸経験が危機におちいり枯渇していることを自覚しつつ、過去のものとは根本的に異なった基礎のうえに、社会主義への新しい一章をきりひらく」(大会草案)ことを目指すものだった。大会準備の討論の段階から、「過去との訣別」とか「党の政策における不連続性」といったことが繰返し強調されたのも、こうした意昧においてであった。  そこには、市民権、諸権利、自由の新たな発展と拡大という民主主義のより高い思想が芽生えつつあるという確信があり、それに寄与するためには、共産党そのものも新しくならなければならないという共通認識があった。大会スローガンの「新しいイタリア共産党」をもっとも象徴するものとして、党規約から「民主集中性」の条項と、「党の団結を擁護し、政治的規律をまもるために分派活動を禁止する」といういわゆる「分派禁止」条項の削除が、党指導部から提案されたのもそのためだった。

  この「民主集中制」という発想は、もともと前世紀末から今世紀始めにかけて生れてきたドイッ社会民主党など大衆政党の組織化のなかでかかげられたものである。それが一九〇五年、レーニンの論文「われわれの任務と労働者ソヴィエト」でとりあげられて以来、長い間、「プロレタリア独裁」とともに、社会民主主義政党から共産党を分ける組織原則とされてきた。

  だがイタリア共産党は、すでに一九七六年の大会で「プロレタリア独裁」の用語を放棄し、九年前の大会で「マルクス・レーニン主義」の表現を規約から削った。さらに八三年の大会で「民主集中制」を党組織の「原則」から「方法」に変えた。八六年の前回の大会では、「民主集中制」放棄の主張は、六〇〇名の代議員中、たった三八票の賛成があっただけだった。それが今大会で、指導部の提案により、圧倒的多数の支持のもとに採択されたのである。

  ここ数年来、同党内の論議は、ほとんどの場で多数意見と少数意見が公表されており、内部の対立、せめぎあいをさらけ出し、それをむしろ組織の創造力に富んだ活力にしてゆくという発想に切替えられている。もっとはっきりいうと、それぞれが自らの豊かな独自性を保ちながら、一つの政治組織としてまとまってゆくという、考えてみればごく当り前のこととはいえ、共産党にとって大胆な実験への取組みが、やっと組織として正式に確認されたのである。とはいえ、ひとつの大衆政党として、どのように結集してゆくか、またそうした結集が可能かどうかは、まさにこれからの課題だ。イタリア共産党による「民主集中制」の放棄をめぐる党内生活の民主化の徹底が、東西ヨーロッパの各党の間で波紋をよんでいるのも、そのためである。

  もちろんこうした指向にたいし、レジスタンス闘争以来、闘うことによって伸びてきた共産党の戦闘性が失われるのではないかといった声や、旧親ソ派のA・コッスッタ中央委員のように「共産主義者であり続けようと思う者にとって、党内に居場所がありうるだろうか」という不安感を表明する者も同党内にいる。だが政治運動において、批判眼を欠いた過去へのたんなる愛惜、郷愁から新しい活力を生み出すことは、むつかしい。なぜならそれは個別的レヴェルに止まって、普遍的なものにはなりにくいからである。しかも進行中の大転換に受動的に順応してゆくのではなく、その推進力として積極的に行動しようとする場合、なおさらである。

 

新しいタイプの労働組合を

 

  名門、名士による政党にたいし、大衆政党は、前世紀末から今世紀始めにかけて登場してきた石炭、繊維、鉄鋼、鉄道、ゴム、工作機械などの大産業に組織的基盤をおいていた。とりわけ共産党はこれら産業の労働の場に組織細胞をつくり、そこからエネルギーを引出していた。これは産業主義の時代に完全にマッチするものであり、そこで党員は仕事を同じくする結果、地域居住と職場の両方を基礎とする社会民主主義政党より、はるかに固い組織的連帯性をつくり出すことができた。

ところが主要国経済の中核的位置を占めてきたこれら基幹産業は、この十数年のあいだに、技術経済基盤全体の急激な転換に直面し、産業構座79の全般的激動の苦しみを味わっている。そのなかで労働者連帯の基盤がくずれ、労働組合の比重も急速に軽くなった。

  イタリアでみると、工業部門で働く労働者は七〇年には五〇%だったが、八七年には四一%に減ってしまった。それにたいしサービス部門の労鋤者は三六・五%から五〇%にふえている。そのうえME化など技術革新によって仕事の仕親みや作業形態が変わり、ヨーロッパの伝統的な意味での労働者階級とは異なった新しい技術系労働者が生み出され、労働者意識全般に大きな変化が出てきた。

  仕事の仕組みや作業形態の変化は、従来の大産業に特微的だった労働者の「横の関係」を破壊しただけではない。新しい技術部門で働く労働者は、これまでの労働者と比べて一般により高い教育をうけ、はっきりした自己主張をもっている。彼らは、自分の仕事にたいする上役のロ.出しを好まないばかりか(先端技術部門ほどロ出しできなくなっている)、従来、労働組合運動において強調されてきた「連帯」や「統一」になじみを示さない。つまり彼らには、これまでのような意味での労働組合の「使命感」や「戦闘性」など通用せず、したがってまた組合に組織するのも容易ではない。事実、トリーノの自動車工場フィアト・ミラーフィオーリには約四万人が働いており、八○年には三大労働組合連合が三三%を組織していた。それが八八年には1%にさがり、労働総同盟(CGIL)はそのうち七、八%を占めるに過ぎなくなっている。そうしたなかでストライキをうっても、参加者はせいぜい一五%程度しかない。

  こうした傾向はイタリアだけでなく、他の欧州諸国にも共通するものだが、基幹産業の現場労働部門にその主たる基盤を築いてきた政党のひとつ、イタリア共産党により厳しく現れているのである。それにたいし大会でも、「技術革新や社会・経済構造さらに労働環境の変化についての党内の関心が弱く、対応が十分でなかった」といった反省の声をはじめ、多くの発言が党の重大な立遅れを強調した。ここでは、そのたんなる指摘に止まらず、ある対案を提起したひとつの発言を紹介しておこう。

  それは昨年末、イタリア労働総同盟の書記長に就任したB・トレンティン(同党中央委員)のものである。彼は、七〇年代半ばから始まった生産体制、社会構造、労働者の階級構造の大転換の波を理解できなかったことを自己批判し、こうした大転換の試練に立向かうことは、労働組合にとって、まったく未知の経験だと指摘する。そのなかで新しい労働組合は、従来のような組合幹部による交渉ではなく、十分な清報と自覚をもち、多様で新しいタイプの何百万の活動家との新しい関係が必要だとして、以下のような点をあげる。

  なによりも第一に、いつでも、どこでも、異なった指向や異なった主体とのあいだで、最低の共通項を見出すことができるような能力が求められる。

  第二には、より広く勤労者、市民の利益という観点から、すべての主体に代表権を保障しなければならない。労働の場に網の目のようにはりめぐらされ、分節化した代表形態の複数性が求められる理由も、ここにある。

  第三は、一つの組織や限られた代表ですべての政策や目標に対応するのではなく、追求する目標との相対的関係において、ここでも代表形態の複数性が求められる。それは必然的に、これまでの労働組合の組織や活動とは、きわめて異なったものとなるだろう。

  最後に新しい労働組合は、組合員の民主主義を認めなければならない。これまでの組合運動において、きわめて複雑な提案が、民主主義の名のもとに、あまりにも安易にイエスかノーかの投票や挙手によって決定されてきた。だが今日、民主主義はきわめて複雑で豊かなイメージでとらえられなければならなくなっている。それは、網の目のようにはりめぐらされ、分節化きれた組識のもとでの民主主義において、はじめて可能であろう。

 

ヨーロッパ左翼の統一

 

  大会で論議の集中したもうひとつの点は、「ヨーロッパ左翼」への自らの位置づけと、そうしたなかでの具体的取り組みの問題である。

  ユーロコミュニズムはすでに崩壊した。だがその提起から一〇年余りたった今日、それは自立的、統一的ヨーロッパ建設のための社会民主主義と共産主義の「歴史的妥協」をめざす試みであったと、ドイッ社会民主党やイギリス労働党の一部から再評価されるようになっている。そしてイタリア共産党自身も、三年前の大会で「イタリア共産党はヨーロッパ左翼の一部である」と規定した。そして今回の大会では、さらに一歩すすめて、「統一した左翼をヨーロッパに形成する」ことを「優先的任務」としてうちだした。

  日本でもその名が知られているイタリアのソ連研究家G・ボッファは、「共産主義者と社会民主主義者がその歴史のなかで長いあいだ対立してきた政治的要因は、過去にたいしてのみならず、今日や明日の問題にたいして、その意味の大部分をすでに失っているLといった。つまり両者を分離し、対立させてきた根本的要因は、すでに意味がなくなっており、相互のあいだで特別の排他的、特権的関係を前提とした思考、行動様式はもはや通用しなくなっているというのである。

  そこには何よりも、世界的状況が根本的に変わり、相互依存関係も深まってきているという認識があった。しかもそうした新しい条件のもとでは、変革を目指す政治勢力の行動様式は変わらなければならなくなるし、新しい諸問題への選択、対応は必然的に接近、交差し、その結果として合意、連合、同盟の形態が変化するのも、当然といえよう。そうしたなかで、従来のように相手側の改宗や屈伏を求めるのではなく、お互いの歴史や立場を理解し尊重しあいながら、異なった経験や考え方を対比・交流させることによって、より豊かな共通の地平を見い出し広げることが探られるようになっている。

  そうしたなかでここ数年来、ヨーロッパ左翼の二つの政治・思想潮流を代表するドイッ社会民主党とイタリァ共産党の接近が目だち、両党共催のシンポジウムや研究会の開催や、それぞれの機関紙誌に双方の論文が大きく掲載されるようになっている。昨年夏『ウニタ』祭で、オッケット書記長が「ヨーロッパ左翼の指導者」として、西ドイツ社会民主党党首W・プラント、八六年に暗殺されたスエーデンの首相で同社会民主党党首0・パルメ、そしてイタリア共産党書記長の故E・ベルリングェルをあげて、話題をよんだ。だがそれは否定的であれ、肯定的

であれ、よくいわれるようなイタリア共産党の「社民化」といった類いのものではない。この三者に共通するのは、新しい時代的変化への感覚とそれへの積極的取組みである。しかも重要なことは、共産主義と同様、社会民主主義そのものも変質を余儀なくされており、伝統的概念で社会民主主義政党と規定できるような政党は、今日、ヨーロッパには存在しないということだ。そして第二もしくは第三インター的な形での左翼の結集は、もはや過去のものとなりつつあるということだ。

  さてそうした認識にたって大会では、左翼の一員としてのイタリア共産党は、国内的諸課題とともに、ヨーロッパ・レヴェルでの主要問題の解決にどのように貢献できるかが、論議された。主要な諸問題とは、平和と軍縮と安全保障、緊張緩和と地域紛争の解決、東西間・南北間の協力、発展と環境保護の結合、経済成長と雇用、男女平等の促進と青年、婦人が社会で占める新しい地位などの問題である。

  しかもこれらの論議には、いくつかの共通認識があった。そのひとつは、複雑さを増す社会において、従来のような労働者階級の闘争を軸とするものから、「市民的権利の重視」へとバランスを移動させていることだ。この点で指摘しておかなければならないのは、平和、環境、開発といった全人類的な価値が労働者階級や党の利益よりも優先するというゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の発言への共鳴と連帯である。

  もうひとつは、前記の諸問題をひっさげてEC統合に関わってゆく時、個々の利益もしくはかしながら労働者であれ市民であれ主権の少なくとも一部を自発的に放棄しなければならない、という認識である。しれ、あるいは国家であれ、そうした方向で大衆的、国民的な合意を具体的に形成し、しかもそうした作業を通じて政治的、文化的により高度な自覚と成熟を促してゆくことは、容易なことではない。なぜならそれへの取組みは、人々が生来もっている閉鎖的、受動的性向と衡突しやすいからである。

  それにたいしては、上部もしくは外部からの強制ではなく、あらゆる方法を通じた説得や自覚による合意の形成しかない。こうした合意の形成こそ、支配者の側ではなしえない民衆の側の論理と方法であり、したがってまた民主主義と革新をめざすもののさけることのできない論理と方法なのである。

  しかもこれは、かってグラムシが「獄中ノート」において、ヘゲモニーを実現しようとする者にとっての「犠牲」と「妥協」の問題として、はっきり指摘した問題である。彼が「ノート」に書いたに止まったこの古くして新しい問題を、党再建の課題として論議し、取組もうとするところに、同大会の最大の挑戦を見ることができよう。

 

未解決の課題

 

  もちろん大会ですべての課題が論じられ、明確な方向が打出されたわけではない。たとえばイタリア共産党は、これまで環境問題に積極的とはいえなかった。エネルギー政策にたいする党最高指導層までふくめた対立があったのである。三年前の大会で、原発新設に反対を求める動議は、反対四五七、賛成四四〇、棄権五九で否決された。そしてイタリア各地でおこなわれた反原発デモは、共産党ではなく、「緑の党」や急進党やプロレタリァ民主党など、新興の左翼小政党が協同で組織したものだった。共産党が正式に態度を変えたのは、チェルノブイリ惨事以後のことである。

  そこには根深いつぎのような背景があることを見逃してはなるまい。すなわち七〇年代半ばころから問われはじめていた環境汚染にたいし、公・私の企業は無視ないし過小評価につとめてきた。だが他方、労働組合側も公式表明ではともかく、雇用確保の代償として環境破壊や商品の毒性に目をつむり、また労働者自らの危険や健康への悪影響を、何らかの「手当」や「補償金」をもって代償としてきた。その限りで、労資はまさに一体だったのである。こうしたもとでは、共産党や社会党そして労働組合が、環境問題の重要性一般に肯定的評価を与えようとも、広くエコロジストたちと連携できなかったのも、当然といわねばなるまい。これまで労働組合運動につよく依存してきたため、この分野で立遅れの目立つ同党にとって、環境問題は生産や労働と同じくらい重要な文化だという認識と、それにもとついた具体的取組みという点では、これからの課題である。

  あと紙数もわずかになってしまったので、二点だけ指摘しておきたい。

  そのひとつは、外国人労働者の問題である。イタリアは中・北部ヨーロヅパ諸国ほどではないが、いわゆる第三世界からの出稼ぎ労働者の数は無視できない。カトリック教会による慈善的援助があり、またイタリア労働総同盟も労働者食堂の解放やイタリァ語学校の開設などをふくむ彼らの組織化に取組んだ。だが彼らに労働の場をということになると、「ただでさえ少ない職場を奪われてしまう」という公然、非公然の抵抗に出会って、思うように進んでいないのが現実である。イタリアだけの問題ではないが、ここでも「自らの犠牲と妥協」によって、どう取組むかという難題につきあたっている。

  もうひとつは、党再生と女性のエネルギーの問題だ。イタリア共産党は一九八七年の総選挙で、党候補者リストの約三分の一を女性にあて、両院で九一名の女性議員のうち六〇名が共産党であった。さらに今度の大会では、党中央委員の三〇%以上を女性にすることが決定された。こうした党各級機関の役員の女性比率の規定は、すでに昨年夏、ドイツ社会民主党大会でも決定をみている(当面三〇%、九四年から四〇%)。党創立以来、「婦人解放、男女同権」を重要スロ!ガンのひとつにかかげながら、具体的取組みを先送りしてきた西ヨーロッパを代表する両党が、これが全てではないにせよ、こうしてはじめて自分の党内で実質的な男女同権にむけて、一歩をふみだした意義は大きいといえよう。

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労研20年の歩み

労働運動研究1989年11月 No.241

一九六九年

 中ソ対立は、この年ついに国境紛争で武力衝突にまで発展したが、六月にモスコーで開かれた世界共産党・労働者党会議には中国、日本などを除く七五党が参加し、反帝国主義闘争への結集を強調した基本文書に六六党が署名。十一月号(創刊号)は、内藤知周「共産党・労働者党国際会議の積極的意義とその批判」、 植村邦「世界革命と国民的な道」で国際共産主義運動の問題点を論じた。

一九七〇―七二年

 この年は政府の「総合農政」 (米の減反、農業構造改善など)が始まるとともに、シアン、カドミウムなど公害問題が全国的に拡大した。また、政治分野では、七月に日本共産党が第十一回大会で「七〇年代の遅くない時期に民主連合政府を」という方針をうちだし、議会主義への転換を明らかにした。国際的には、イタリアの「熱い秋」に代表されるヨーロッパ労働運動の高揚が始まった。七一年一月号は、〔自民党総合農政の本質〕を特集し、遊上孝一「米をめぐる二、三の問題」、横田義夫「食管制度をめぐって激動する農協」、 柴田友秋「鹿島開発闘争の中間報告」、 五月号では横田義夫「新たな段階を迎えた米の『生産調整』と農協」、 七月号では遊上孝一「議会党への転落宣言―日本共産党第十一回大会決議案」批判、九、十一月号では植村邦 「『イタリアの秋』―その戦略と戦術へのノート」を掲載した。

 日米間で沖縄返還交渉が急ピッチで進むなかで、七二年五月に沖縄全軍労・教職員会・自治労など五四単組(七万五千人)が二四時間ストを打つ中で、七月号は沖縄労研の協力を受けて「特集・米軍権力をゆるがした全軍労三五日間のストライキ」特集した。

一九七三―七四年

 一九七〇年十月成立したチリの人民連合政権はアメリカと結託した国内反動勢力の激しい攻撃で非常な困難に直面していたが、植村邦は一、三月号の論文「社会主義へのチリの道」でチリ革命の平和移行の問題点を論じ、九月十一日にピノチェトのクーデタ直後の七四年一月号は「チリ革命挫折に学ぶもの」を特集した。国内では、日本共産党の議会主義への転落にともなって大衆団体内に「政党支持の自由論」や「教師聖職論」、「自治体職員―全体への奉仕者論」などの日和見主義理論が労働運動や大衆運動の中に持ち込まれ、いたるところに分裂が生ずるなかで、八、九、十、十一月号でこのような日本共産党の誤った方針を批判した。

 ■七四年五月、内藤知周理事死去

一九七五―七六年

 世界は一九七四―七五年に戦後最大の恐慌に見舞われたが、長谷川浩は一月号の論文「資本主義体制の腐朽と七四年恐慌」の中でいち早くこれを過剰生産恐慌と規定しその特殊性を論じ、三月号では『ノーボエ・プレーミヤ』誌のエフ・ゴリューノブの論文「七四年の資本主義経済恐慌」、 十月号では『ポリティカル・アフェアーズ」誌のビクター・パーロの論文「経済恐慌は深まる」の論文を掲載した。また日本共産党の部落解放同盟や原水禁運動の分裂活動が激しくなる中で、佐和慶太郎が三、五月号に「部落解放運動の理解のために」、 松江澄が七月号に「原水禁運動の統一とは何か」を執筆。また国際問題ではポルトガル革命の過程が九、十月号で追及されている。 十一月、公労協、国労、動労、全逓、全電通など三公社五現業の労働者は、スト権奪還を要求して八日間、一九二時間にわたるストライキに突入したが、七六年一月号は長谷川浩の「スト権ストは打ち抜かれた」の論文を掲載。また国際婦人年の重要な行事として七五年六月に開かれたILO第六〇回総会の「婦人労働者の機会および待遇の均等に関する宣言」とともに柴山恵美子の論文「母性保護と平等をめぐる問題」が掲載されている。なお七月に行なわれた日本共産党第十三回臨時大会批判の佐久間弘の論文「宮本顕治の『敗北の戦略』」が十一、十二、七十七年一月号に連載された。

 また七六年は、歴史的なスターリン批判を行なったソ連共産党第二十回大会の二十周年にあたり、イギリス共産党機関誌『マルキシズム・ツデイ』に掲載されたジョン・ゴランの論文「社会主義的民主主義の若干の問題」を三、四、五、六月号に連載。さらに二月にフランス共産党第二十二大会でプロレタリアート独裁の規定を党規約から削除したことについて五、六、七、十月号で山本徳二、植村邦、松江澄が論じ、九月号では六月に行なわれたヨーロッパ共産党・労働者党会議最終文書とポルトガル共産党アルバロ・クニアル書記長の発言が紹介されている。

 ■会員・理事の著書発刊 長谷川浩  『二・一スト前後と日本共産党』  (三一書房)、佐和慶太郎『部落解放の歴史と現実』 (三一書房)

佐久間弘(柴山健太郎)『鹿島巨大開発』 (お茶の水書房)

一九七七―七九年

 この時期には、特に政局、労働、農業、技術革新、共産党批判、国際問題ではポルトガル革命、イタリア、中国問題を論じたものが増えている。

 政局では、佐和慶太郎「保革伯仲総選挙の得票分析」 (七七・二)、 長谷川浩「急速に動きだした中道路線」(七七・九)、 山下一郎「八○年代初頭は保守中道連繋か」 (七九・一一)

がある。

 労働では、春闘の連続的敗北、国労、動労、全逓、日教組、自治労など公共企業体や公務員労働者に対する合理化攻撃、造船、電気産業などの労働者への人減らし攻撃の問題が多く論ぜられている。特に七九年になると、OA化の進行を反映して、 「コンピュータ合理化の基本問題」 (七九・二)、山下一郎「核心に迫る杉並の国民総背番号制反対闘争」 (七九・三)、「世界最大の金融機関の合理化―郵便貯金オンライン化問題」 (七九・五)、 小山博「オンライン合理化との闘い」(七九・九)、 剣持一己他「コンピュータ反対闘争の実情を語る」 (七九・一二)などが掲載された。

 農業では、一柳茂次が政府の生産調整に反対して闘っている新潟県の福島潟の農民の闘いを連載し、横田義夫は「史上最大の乳価闘争」(七七・一二)で酪農民の八日間の乳価ストを報告し、更に「日本農業を破壊する米の生産調整」 (七八・二)、 赤木次郎「第二次減反および農業再編成の本質」(七九・五)、 横田義夫「日本帝国主義の農業戦略」 (七九・一一)などで農政批判の論陣を張った。

 この時期に日本共産党批判では、遊上孝一が「日共第十四回大会への疑問」 (七七・一一)、「ユーロコミュニズムと日本共産党」 (七八・七〜八)、津南竜平「レーニンの党組織原則に関連する若干の原則」 (七七・七)、「科学的前衛論か」一〜四(七九・四〜八)、佐久間弘「戦後綱領論争の教訓」一〜四(七八・一〇〜七九・三)などが連載された。

 国際問題では、依然としてポルトガル革命に関連する論文が多く、それにイタリア、フランス、スペインのユーロコミュニズム諸党や、中国やイラン革命、タイのクーデタ、アフガン革命などに関連する論文が増えている。ポルトガルでは、A1・ソボレフ「ポルトガル革命発展の諸局面と革命的前衛の戦略、戦術の諸問題」 (七八・二〜三)、 フォーベット「四年にもなるポルトガル革命」 (七八・八、 一〇)、チリではホセ・カデマルトリ「チリ革命における若干の政治と経済の問題」(七八・五)、 イタリア、フランス、スペインでは植村邦が「長い過渡期の戦略」、「イタリア労働者階級の運動」、「社会主義への第三の道」(七九・七)、「フランス左翼連合の敗北」 (七八・七)、「スペイン共産党第九回大会への道」 (七八・一一)、 山下一郎が「イタリア共産党の"第三の道"とは何か」 (七九・五〜六)、 イギリスでは「イギリス共産党の新綱領草案」(七七・三)、 A・チェスター「イギリス共産党の革命戦略の変遷」 (七九・一})などが掲載されている。またこの時期に重大な問題になりつつあった社会主義国家間の闘争を理論的に解明する論文としてイギリス共産党のモンティ・ジョンストンの「社会主義国家間の闘争」 (七九・一〇〜一一)が紹介された。また中国問題では一貫して文化大革命批判の論陣を張ってきた藤城栄が「華国鋒体制と十一全大会」(七七・一一)、「中国の近代化と全人大会」 (七八・五)、「日中条約と中国の現情勢」 (七八・一一)、「毛沢東批判の歴史的意義」(七九・四)を書いている。

 ■労働運動研究所編『内藤知周著作集』 (亜紀書房) (七七・一一)

佐和慶太郎『差別への転落ー日 本共産党批判』 (解放出版社) (七七・八)、『部落完全解放とは何か』 (三二書房)(七八・七)

■七八年三月二十一日、東京・新宿家の光ビルで『労働運動研究』の百号発刊を祝う会が盛大に開かれた。

■七九年十二月一日、労働運動研究所創立十周年記念の「講演と討論の集い」を開き長谷川浩代表理事が「八十年代の日本帝国主義と階級闘争の諜題」と題して講演を行う。

一九八Oー八三年

 この時期に国際問題で最大の焦点になったのはポーランド問題で、特に戒厳令施行以後は誌上で約一年以上に亘って論争が展開された。論争の発端になったのは、八二年二月号のイタリア共産党のポーランド戒厳令の批判論文「社会主義闘争の新局面を開くために」と三月号の植村邦「ポーラソドの事態と国際共産主義運動」、 モンティ・ジョンストンの「ポーランドの軍事クーデタ」ならびに松江澄「ポーランドの事態から学ぶこと」などの諸論文であった。編集部は、五月号でイタリア、ソ連共産党の論争に関する誌上論争を特集したが、山本正美は「必要なのは全反帝勢力の結集」という論文でイタリア共産党の方針を批判し、植村邦は「具体的な現実の具体的分析を」でイタリア共産党の主張を擁護し、ソ連共産党を批判した。高井正造は、六月号の「『労研』三月号植村論文への疑問」で批判し、津南竜平は「民主主義・国家・プロ独裁」(六、七月号)でソ連共産党のポーランド政策を批判した。植村は七月号に「高井君へのいくつかの回答」で反論したが、鶴崎藤吉は十月号の「複数主義・多元主義・自主管理批判」で植村、津南両論文を批判した。柴山健太郎は「ポーランドの教訓ー社会主義再生と戒厳令をめぐる論争に寄せて」 (八三・一、二、三月号)、 で戒厳令を批判した。ソ連問題では、ロイ・メドベージェフの「ブレジネフ後のソ連」 (八二・.)が掲載されている。

 ヨーロッパ問題では、主としてイタリア、スペイン、フランスなどについてユーロコミュニズムの衰退、フランス左翼連合政府の勝利などについて論じられた。イタリアでは、植村邦が「新しい主体としての労働者―  フィアットの危機と闘争」 (八二年一月号)、「イタリア共産党第十六回大会の課題―『民主主義的交代』の建設」(八三年六、七月号)、 フランスでは「ミッテランの勝利と左翼連合の諸条件」 (八一年七月)、 ダニエル・ペロー「、ミッテランの一年」(八二年七月)、 スペインでは植村の「ポスト・フランコにおける『ユーロ・コミュニズム』の課題」 (八二年十一月)、 パメラ・オマリ「スペイン共産党の危機」 (同上)が掲載された。

 韓国問題では、李明哲の「光州抗争と韓国民衆の闘い」 (八○・七)、 康栄浩の「韓国婦人労働者の闘い」 (八二・三)、 吉松繁の「韓国の現況と政治犯救援の課題」 (八三・一)、 その他アフガン、カンボジア、グレナダ、ニカラグア、イラン革命などが論じられた。

 中国問題では、藤城栄が「現代中国の政治と経済―近代化のジレンマ」(八○年一月号)、「劉小奇復活と中国共産党」 (五月号)、「四人組裁判と中国共産党」 (八一年二月号)、「毛沢東主義の近代化-六中全会の歴史決議」 (十一月号)で中国の文革後の近代化路線を論じた。

 国内政局では、八○年八月号で長谷川浩が「自民党はなぜ圧勝したか」、倉田次郎が「ダブル選挙と労働運動」、山下一郎が「衆参同日選挙の決算表」を論じ、八二年の政変では柴山健太郎が「鈴木政権の崩壊と自民党の危機」(八二・一二)を論じている。この時期も技術革新と労働運動に関する論文や座談会が多く、剣持一己他「コンピュータ反対闘争の実情を語る」 (八○・一)、「これからの反合闘争はいかにあるべきか」 (八〇ニニ〜四)、 小山博「新しい局面を迎えたオンライン合理化闘争」 (八○・三)、 編集部「急迫する大阪"秋の陣"―大阪市役所の住基台帳電算化問題」 (八○・六)、赤砂水無夫「本の総背番号と流通のコンピュータ合理化」 (八○・九)、 編集部「メカ.トロニクスと労働問題―『産業構造の転換と金属機械産業』の危険な考え方―」 (八一・一)、 ガス・ホール「チップとロボットの革命」 (八一・九)、 山下一郎「漢字オンライン計画と荒川区職労の闘い」(八二・一)、 座談会「ロボット・OA化の現場を語る」 (八三∴二)などが掲載された。

 労働運動では、八○年五月号で田中正純が「造船合理を闘い抜いた佐世保重工労働者」、 秋葉甚市が「産業構造転換と全電通労働者」、高井正造が「特別昇給制の協約化に反対するー.全逓第三四回大会に寄せて」 (八一・三)、 編集部「車掌の抵抗―国鉄乗組基準の改悪に抗して」 (八一・七)、野中進「決断迫られる総評労働運動―戦線統一問題に揺れる総評内部の動向」 (八一・八)、 和田新次「官公労労働運動の危機と春闘」 (八三・四)、「公企体賃金抑制の実態」 (八三・七)、 八三年一一月号では、編集部「倒産企業と自主生産闘争」、藤野浩一「"ビラ貼り”で懲戒免職―反処分闘争と国労・鹿児島闘争の教訓」、編集部「敵も大衆も忘れた愚な対立―全逓・池貝・大阪衛都連における労組内紛」、 座談会「恐るべき教育現場の現状」などが掲載された。

 農業問題では、農民の生産調整反対闘争が引き続いて取り上げられ、大富文三郎の「蒲原平野に見る米の生産調整反対の戦い」 (八○・一一、 一二)、竜川圭雄「第二次生産調整と農業・農民」 (八一・三)、 大富文三郎「岐路に立つ福島潟闘争」 (八一・五)、 大野和興「解体化の道をたどる不足払い体制―生産調整下の酪農」 (八一・六)、 一柳茂次「農基法二十年の決算」(八一・七、八)、 西沢江美子「合理化攻勢と農協女子労働者」 (八一・=)、 赤城次郎「独占資本の雇兵としての先進国農業論」 (八一・一二)、 一枷茂次「一五ヘクタール農民と国家―秋田県大潟村の干拓地の土地取り上げ」 (八二・三)、「八郎潟干拓の『大農』の怒り」 (八二・五)、横田義夫「合理化路線を歩む日米農産物交渉」 (八二・七)などがあるが、一柳はこの後も大潟村の問題を追い続けていく。

 女性問題では、八○年三月号に山本菊代の「母性保護と婦人労働の実態―生理休暇の問題を中心に」と資料「婦人労働者の経済的、社会的、文化的権利および労働組合権に関する憲章」 (婦人労働者に関する第四回世界労働組合会議)、 九月号に柴山恵美子の「現代世界と婦人解放」が掲載された。八一年三月号の「特集・婦人の解放」では、山本菊代「共働き夫婦の家族扶養は共同負担―性差別と闘う横浜市職員」、 西沢江美子「農村婦人の現状と運動の方向ー青森県の運動を中心に」、 柴山恵美子「婦人解放をめざすイタリア左翼の実践」、 さらに八二年には柴山恵美子の「調査・統計から見た男女差別の現状」 (八二・七)、「コンピュータ・OA下での婦人労働」(八二・コ)が掲載された。

 ■労働運動研究所編『コンピュータ合理化と労働運動』(三・一書房)  (八○・一一)

 ■原全五『大阪の工場街からー私の労働運動史』 (柘植書房) (八一・二)。 三月二十九日、阪で「原全五の古稀と出版記念会」開く。

 ■八一年四月四日、東京・神田・学士会館で内野壮児代表理事の追悼会。

一九八四―八六年

 この時期の『労働運動研究』は改革への過渡期で、八四年を境にして編集方針に大きな相違が見られることである。八四年には一年間にわたり現存社会主義の優位性をめぐる論争が展開されたが、八五年以降、労働運動研究所が新体制に移行してから編集方針がより大衆化し、特集方式が定着したのが特長である。

 現存社会主義論争の発端になったのは、八四年一月号の松江澄の「現代社会主義の諸問題について」、 長谷川浩の「『社会主義の優位』とは何か」、遊上孝一の「社会主義社会のマルクス主義的分析を」、 四月号の松江澄「八十一力国声明は今でも有効か」などの諸論文で、柴山健太郎は「全般的危機の問題によせて」 (八四・八)、 水沢広志は「『八十一力国声明』批判を批判する」 (八四・九)でそれぞれ松江論文を批判した。また九月号の佐和慶太郎の「独裁とヘゲモニー革命の『平和的移行』に関連して」を柴山は「社会主義への平和的移行とプロ独裁」 (八四・一一)、 藤城栄は「プロレタリア独裁の一考察」(八四・一二)で批判した。松江は八五年一月号の「核戦争阻止の闘いと社会主義への平和的移行」、 佐和慶太郎は「平和的移行と社会主義党」でこれに反論したが、藤城は更に「再びプロレタリア独裁について」 (八六・一)で佐和論文を批判した。

 国内政局では、八三年十二月の総選挙を山下一郎が「野党協力が『伯仲』を生み出した」 (八四・二)、 柴山健太郎が「自民党" すりより連合論"の破産」 (八六・八)、 大野和興「自民圧勝と農村票」 (八六・一〇)でダブル選挙での自民圧勝を論じた。

 労働では、和田新次の「公労協はどこへ行く」(八四・一〇)、編集部「労働権脅かす派遣事業の法制化」 (八五 ・一)、 野中進他の座談会「総評労働運動の危機とは何か」 (八五・〜三)、 座談会「小集団活動の現状を語る」 (八五.一二)、 八六年  号の 「国鉄の分割・民営」特集では広兼主生の「国鉄解体計画を紛砕するために」、 藤野浩一の「困難に屈せず抵抗の持続を」、 佐藤一コ九四九年国鉄闘争の教訓」が掲載されている。

 八六年二月号は「八六春闘読本」として特集され、七月号は「特集・転機の労働運動」として野村昇二「全民労協の動向と『全的統一』」、小森良三 「変動する労働市場の構造」、 松谷澄子「均等法後の女性労働」、 田辺和彦 「企業忠誠心の揺らぎか」、 労働情報運営委員会「国鉄解体法案粉砕に決起しよう」などが掲載された。更に九月号では「特集・国鉄国会をひかえて」で国鉄闘争を特集し、更に一一月号では「特集・階級的労働運動の再生を」で、国労、日教組、公労協の闘争を特集した。

 女性問題では、山本菊代が「看護休暇実施の状況」 (八四・二)、 中島洋子「母子家庭殺しの児童手当を削るな」(八四・六)、内田和子「八四『婦人労働白書』批判」 (八五・一)、「差別と搾取の中の女子労働」 (八五・三)、 ナイロビ世界婦人会議コ一〇〇〇年にむけての婦人の地位向上のための将来戦略」 (八五・一一)、 八六年三月では「特集・均等法実施後の女性労働問題」で柴山恵美子「新段階に入った女性差別との闘い」、 松谷澄子「女の人権と老後保障」、 樽見敏彦「ふれあい条例請求運動から地域ユニオン結成へ」、樫原真理子「パートはどうしてこんなに差があるのか」、杉山加寿子「全逓女子組合員『深夜業解除』を闘い取る」などが掲載された。

 農業問題では、八六年五月号で「労働者と語る日本農業」を特集し、林信彰「日本独占の農業政策」、 柴山健太郎「日本農業は過保護か」、大野和興 「カーギル進出と坪内研修」、 遊上孝 一「日本における農民層分解」、 柴田友秋「農協広域合併問題と農民」など

が掲載された。

 経済では、八六年七月号に降旗節雄「ロン・ヤス仁義の経済的基礎」、 十二月号の「円高・経済摩擦下の日本経済」の特集で鎌倉孝夫「現代資本主義と規制緩和・民間活力の活用」、 宮崎義一「日本経済関係と日本産業の動向」、 伊藤誠「貿易摩擦と円高不況の行方」、 斉藤道愛「経済摩擦と日本農業」、 吉岡啓「造船不況と地域経済」などが掲載されている。

 国際問題では、ヨーロッパではやはりユーロコミュニズム諸党の分析が主となっている。イタリアでは片桐薫「八○年代に挑戦するイタリア・マルクス主義」 (八四・五)、 植村邦「イタリア社会党首班内閣の成立と民主主義的交代の現実性」(八四・八)、 「西欧におけるイタリア・新しい局面へ」(八五・九)が掲載された。フランスでは、福田玲三の「欧州議会選挙結果とフランス共産党の党内論争」(八四・一一)、「社会主義だけが危機脱出の道ーフランス共産一党第二五回大会決議案」 (八五・二)、「仏共産党の総選挙総括と社共共闘派の問題点」 (八六・五)G・ボッファー「J・カナパの遺著―チェコ事件をめぐる仏・ソ・チェコ秘密会談」など、スペインでは植村邦「スペイン共産主義運動の分裂」(八四・七)、「S・カリリョーユ

ーロコミュニズムの衰因を語る」 (八五・三)、 佐治孝夫「スペイン移行期の政党と政党制」 (八六・六)などがある。イギリスでは栗木安延の「イギリス炭鉱労働者の長期ストライキ」(八五・五)、 D・クックの「イギリス共産党の内紛」 (八五・八)、 A・べーカー他「英炭鉱ストに関する討論」、 ペン・ファイン「イギリス労働運動は危機か」 (八五・一一)、 西独では「ドイツ社民党の新綱領草案」(八六・一一〜一二)、 アメリカでは五味健吉「アメリカ農業の危機」 (八五・五〜六)、 H・サボラ「アメリカの農業危機と農民運動の新しい発展」(八五・九)、「アメリカ共産党の労働運動綱領」 (八六・一一〜一二)などがある。ソ連では藤城栄の「ソ連共産党第二〇回大会と中ソ対立」 (八六・三)、 植村邦の「ソ連共産党第二七回大会の問題点」がある。

 ■八四年二月 長谷川浩代表理事死

  去。八五年三月城戸武之理事死

  去

 ■長谷川浩『占領期の労働運動―産別会議最後の対決』(亜紀書房) 上・下2(八四・五)

 ■松江澄『ヒロシマからー原水禁運動を生きて』 (青弓社) (八四・七)

 ■山本正美『激動の時代を生きて』 (社会評論社) (八五・八)

■山口氏康『ヒロシマもう一つの顔―地方議会の生態』 (青弓社) (八六・四)

一九八七―八八年

 この時期の編集では、国内問題では政局、労働、農業、女性、経済、国際問題ではソ連のペレストロイカやヨーロッパの社会主義に関する論文が増えてきたのが特徴である。

 政局では、入七年一月号の「特集・『国際国家』日本を問う」で安藤紀典が「中曽根政治と『国際国家』」、鷲田小弥太が「反動思想の現在姿」、 大崎達也が「新国家主義と中央集権化ー臨調行革の五年を振り返る」、 二月号で柴山健太郎が「京都座会と『国際国[家論』」、六月号では佐和慶太郎が統一地方選挙の結果を「社会党ホドホドの原因」で論じている。労働では、八七年三月号の「特集・円高不況下の八七春闘」で小森良三が「円高不況下の日本経済と八七春闘」、 持橋多聞が「造船雇用合理化の嵐の下で」、 土来生三が「電機労働者は今年も闘わない」、五月号は「特集・労基法改悪に反対する」で近藤昭雄が「労働時間法制の抜本的改悪」、 山口五月が「均等法は職場をどう変えたか」、 篠田二郎が「民営化後のたばこ労働者」、 六月号は

「特集・岐路に立つ日教組運動」で山本馨が「教育現場で進む臨教審の改革・路線」、 福井祥が「たたかう日教組の再生を」、 田中真一郎が「労働慣行破棄攻撃の中で」、 松村健一が「高校教育『正常化』攻撃の中で」などの諭文を掲載している。入八年には、三月号で「特集一・八八春闘とこれからの運動」、「特集二.労働者協同組合の新しい波」、 七月号では「特集・大企業の職場.労働者の抵抗線」、 九月号では「特集.日本的経営の構造変動」などが取り上げられ、テーマも論者も非常に多様になった。女性問題では、八七年四月号の「特集・女たちの今を問う」で久場嬉子が「フェミニズムとマルクス主義」、 小畑精武が「パート労働者の未来を拓く」、 中島圭子が「行き方までが"変形"に」など、八八年六月号の「特集・女の闘い・労働と生活」には石毛鎮子の「混迷する女性労働と保育の商品化」、 阿部裕子の「今必要な女性の主体形成」などが掲載されている。経済問題では、八七年七月号の「特集.緊迫する日米経済戦争」で降旗節雄が「日米経済戦争の底にあるもの」、 箕輪伊織が「日本農業解体のシナリオ」、 小杉一郎が「新前川レポートと日本経済」などのほかに、「日本的経営論」を論じたものにK・ドーゼ他「フォード方式からトヨタ方式へー『日本的経営』は世界に移転できるか」(八八・七)、桐谷仁の「フォード主義からポスト・フォード主義へ」がある。天皇問題では八八年八月号の「特集・現代の天皇制批判のために」で村上重良が「現代の天皇制」、天野恵一が「情報社会の天皇制」、村田稔が「天皇制・民主主義・社会主義」、 佐和慶太郎が「続・私の体験的天皇論」、 山本正美が「天皇制廃止の現代的意義」を論じている。

 ソ連や東欧のペレストロイカでは、F・ブルラツキーの「ソ連社会の構造改革とゴルバチョフ革命」(八七・四)、 富田武の「ゴルバチョフ革命の現局面」 (八七・五)、 八七年十一月

号の「特集・ロシア革命七十周年とペレストロイカ」では松江澄が「われわれにとってのロシア革命」、 中村裕が「ペレストロイカの現在」、 富田武が「ペレストロイカの理論的側面」が掲載されている。八八年には、遊上孝一が「ソ連農業とペレストロイカ」 (八八・四)、 植村邦が「ブハーリンの名誉回復」 (八八・七)、 労研国際部が「第十九回党協議会前後のソ連社会の動向」 (八八・九)、 八八年十一月号の「特集・東欧社会主義の現状と改革」では、石川晃弘が「ペレストロイカに対するチェコの対応」、 家本博一が「ポーランド経済改革の第二段階」、高木雄郷が「ユーゴ・ペレストロイカの現実」を論じている。西欧では、佐治孝夫コ九五六年―イギリス共産党とハンガリー動乱」 (八七・一)、トビアス・アプセ「イタリア共産党第十七回大会」(八七・二)、植村邦「グラムシ死去五十年とイタリア共産党の難局」 (八七・九)、 ドナルド・サッソン「イタリアの色褪せた夢」 (八七二〇)、福田玲三の「フランス・反動に対して広がる怒り」 (八七・三)、植村邦「フランス共産主義者の苦悩」(八八・一)、 桐谷仁「西欧社会民主主義の昏迷―L・パニッチの社会民主主義批判」 (八七・四〜五)、「未来に向かってー『イギリスの道』 (イギリス共産党)草案」 (八八・一二)、柴山健太郎「EC完全統合とヨーロッパ左翼の政治」 (八八・五〜六)、 片桐薫「ヨーロヅパ社会主義の衰退」(八八・一一)、 ドイツ社会主義統一党・ドイツ社会民主党「イデオロギー論争と共通の安全保障」(八七・=)などがある。アジアでは、八七年=一月の「特集・激動するアジア」では、仁科健一「オリンピック後の韓国情勢」、 福好昌治「在韓米軍撤退問題と日米安保」、 南麻記「アキノ政権三年目のフィリピン」、『アジア・ウィーク』の「銃剣制圧下のビルマ」などが取り上げられている。

 理論では、八八年二月号は、前年十一月に開かれたグラムシ・シンポジウムを「特集・グラムシの思想と現代」で特集したほか、藤井一行「不破哲三『スターリンと大国主義』の"方法" への疑問」(八八・二)、中野徹三「日本共産党の現綱領とその論拠」 (八八・三〜四)、 栗木安延「コミンテルンと統一戦線」 (八七・一一〜一二)などがある。

 ■八六年十一月、由井誓編集長死去。八七年十一月『由井誓-遺稿と回想』 (新制作社)発刊

 ■遊上孝一編・小林社人著 『『転向期』のひとびと  治安維持法下の活動家群像』 (新時代社)

一九八九年

 一月号は「特集・いま運動に新しい構想を」で、野中進が「労働運動のこれからー総評中長期方針検討委員会の提言」、島田博明が「テクノロジーと労働運動の課題」、古沢広裕が「新しい社会の構想―共生社会について」、国際問題では「戦略見直しへ進む欧州左翼」の座談会を取り上げている。

 二月号は八八年十二月三、四日の「フォーラム・新しい社会の創造をめざして」の特集を行なっている。
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